スープとイデオロギー/ヤン ヨンヒ監督
ヤン ヨンヒ監督の「スープとイデオロギー」を見る。
ヤン ヨンヒ監督の映画は今回初めてだが、2018年に書かれた自伝的小説『朝鮮大学校物語』は以前に読んでいる。ヤン監督は大阪出身の在日コリアン2世で、両親ともが朝鮮総連大阪本部の幹部として同胞に金日成の偉大さと民族教育の重要性を説くことを仕事としていた。1971年に行われた帰国事業では、両親はヤン監督の3人の兄を、彼らが見たこともない祖国北朝鮮に送った。朝鮮総連が旗振り役を果たしたのだ。「国家」と家族について、ヤン監督(娘ヨンヒ)の、アボジ(父)とオモニ(母)に対する葛藤をテーマにしてきた作家だと言えようか。
複数の勲章を胸に誇らしげに立つアボジ(父)と民族衣装姿のオモニ(母)が並ぶ記念写真。一方で、監督の前の隠居したアボジは普通に大阪の人の良いおっちゃんだ。カメラの先の娘ヨンヒに「誰でも好きな男と一緒になればいいねん。」と言い、「言説を取った(撮った)よ」と念を押すヨンヒ監督に「いや、アメリカ人と日本人はだめや」と言う。
日本で生まれたオモニは、済州島出身のアボジと22歳の時に結婚した。アボジが亡くなり独り住まいとなったオモニの様子を確かめに、カメラを携えたヤン監督は実家を訪れるようになる。オモニは丸鳥の腹になつめと朝鮮人参、それから大量の青森ニンニクを詰め込む。糸で口を縫い合わせ、大鍋に水を入れ、コンロを点火する。翌日、スーツ姿のひとりの男性が大阪の家を訪ねてくる。彼はかおるさんといい、オモニのもとににヤン監督との結婚の許しを請いにやってきた「日本人」だ。突如現れた「新しい家族」が物語の核となり、オモニがこれまで一切口にせず抱えてきた過去を解き放つ鍵となっている。
大戦末期、15歳のオモニは激しさを増す大阪の空襲から逃れるため、彼女の両親の故郷の済州島に疎開をする。当時は大阪と済州島との間に定期便があり、済州島を故郷にもつ多くの朝鮮人が大阪にコミュニティーを作り暮らしていた。だが、日本の敗戦によって朝鮮半島は38度線で二つに分断される。アメリカの支配下の南朝鮮での国家の樹立を目指した李承晩政権は、南北統一独立国家を目指し蜂起した済州島の住民を弾圧し虐殺をした。それが「済州島四・三事件」である。政府軍と警察、そしてその支援を受けた反共団体による大弾圧で、武装蜂起とは関係のない多くの住民も巻き込まれ、村々の7割が焼き尽くされ、少なくとも約1万4200人が死亡したと言われている。18歳になったオモニには当時婚約者がおり、医師である婚約者ももまたこの事件で殺害された。身の危険が自身にも及ぶのを恐れ、弟と妹を連れて海岸までの30キロを歩き密航船に乗り込み「故郷」日本に戻った。事件のあまりの悲惨さに多くの人がこの事件に口を閉ざした。
韓国から来た四・三事件の調査団の聞き取りに答えたオモニは、それ以降明らかに認知症が進んだたように見えた。彼女が背負った凄惨な「記憶」と、彼女が盲信したかに見えた「イデオロギー」を解放したこと、それに加え、おそらく娘ヨンヒとかおるさんに、4時間半煮込む「スープ」を引き継いだことが、何よりオモニの「親」としての役割を退くことに繋がったように思えた。
映画の最後で、ヤン監督とかおるさんが一緒に金日成と金正日の肖像を下ろすこと、一方で認知症のオモニが最後まで手放すことの無かった歌、北朝鮮のそれについて、映画の前の私たちは今一度考えなければならないと感じた。付け加えれば、済州島では旧日帝の協力者たちが反共のもと息を吹き返し虐殺に加担したというから、事件は私たちには関係が無いとは言い切れず、また戦前・戦中、さらに戦後から現在に於いてでさえも、意識、無意識を問わず、彼らとコミュニティに対して持ち続けた(ている)「蔑視」が、(普通名詞としての)オモニとアボジと家族を追い詰めた(ている)ことに気づくべきであるのは言うまでもない。