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フェルトセンスを綿菓子にたとえる

フォーカシングを学んでいる方々によく聞かれるのが、「結局のところ、『フェルトセンス』と『体験過程』って同じなんですか? 違うんですか?」という質問です。結論から言うと、フェルトセンスの方が意味合いが狭くて、体験過程の方が意味合いが広いものだというのが、私の理解です。この違いに応えるために、私はよく綿菓子作りにたとえて説明します。

綿菓子機にザラメを入れて機械を動かすと「もや~~」と霧のようなものが綿菓子機の中いっぱいにできます。この、つかみどころのない「もや~~」っとしている状態が体験過程(experiencing)だとします。

で、この「もや~~」っとした霧状の中に、サッと割り箸を入れてクルクルッと回してみます。すると、ある程度まとまりのある「もやもや」ができあがるわけです。割り箸さえあれば「もやもや」は何個でも作れます。このまとまりのついた「もやもや」が、「フェルトセンス」にあたります。

では、まとまりをつかまえておいてくれるものであるとすれば、割り箸は「ハンドル(取っ手)」にあたるといえるのか? いえ、この段階では、まだ「ジェンドリンが言う意味での」ハンドルには当たりません。ただの割り箸は、どれもみんな同じに見えて区別がつきません。この段階での割り箸は「ここ」とか「この感じ」といった言葉のようなものです。

そこで、割り箸にそれぞれ色をつけたり、仮面ライダーのビニール袋をかぶせてゴムで止めたりすると、綿菓子どうしの区別ができます。このように、色のついた割り箸や絵柄の付いた袋になって初めて、「ジェンドリンが言う意味での」ハンドルにあたります。なぜならジェンドリンは、「ハンドル」とは、フェルトセンスの質をあらわすものだと言っているからです。言葉が質をあらわせるとは、他の「もやもや」と区別ができるということです。ハンドルとは、胸のあたりの「ザワザワ」とか、お腹のあたりの「チクチク」といった言葉がこれにあたります。

こうしたハンドルとしての言葉が見つかると、あとになっても同じフェルトセンスに戻って来ることができます。つまり、言葉がフェルトセンスのリマインダーになるわけです。

※上記の文面は、日本フォーカシング協会メーリングリストへ16年前に投稿した
・田中秀男 (2004). [focusing-net: 5368] フェルトセンスを綿菓子に例える
という記事に少し修正を加えたものです。

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