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「動物のジェスチャー」からのシンボル生成: 『プロセスモデル』 (ジェンドリン, 2023) と『精神・自我・社会』 (ミード, 2021)

ユージン・T・ジェンドリン (1926–2017) の哲学的主著の一つ『プロセスモデル』 (Gendlin, 1997/2018; ジェンドリン, 2023) は、アメリカ古典的プラグマティスト、ジョージ・ハーバート・ミード (1863–1931) の代表作『精神・自我・社会』 (Mead, 1934; ミード, 2021) の影響を強く受けています。ミードとジェンドリンをつなぐ人物にチャールズ・W・モリス (1903–1979) という哲学者がいます。ミードの教え子がモリスです。また、モリスは、ジェンドリンの博士論文 (Gendlin, 1958) の指導教員です (田中, 2023, October) 。よって、ミードの孫弟子がジェンドリンということになります。そして、このモリスこそが、師・ミード晩年の講義録を編集し、『精神・自我・社会』として公刊した人物なのです。なお、本公刊書冒頭にモリスが寄稿した「はじめに」と「解説―社会心理学者ならびに社会哲学者としてのジョージ・H・ミード」とが今回の新訳で初めて収録されました (ミード, 2021, pp. vii-xxxv) 。

『プロセスモデル』の中でも、とりわけ第VII章は、ミードからの影響が色濃いです。第VII章は「動物のジェスチャー (animal gestures) 」が「原言語 (protolanguage) 」と呼ばれる人間の原始的な言語へといかに進化したかが論じられている箇所です。

『精神・自我・社会』の前半部分で、ミードは、先行するチャールズ・ダーウィン (1809–1882) やヴィルヘルム・ヴント (1832–1920) のジェスチャー理論を批判的に検討した上で自らの言語発生論を提唱したのでした。その発生プロセスをミードよりもさらに細かく論じたのが、『プロセスモデル』の第VII章だといえるでしょう。

ジェンドリンの訳書、ならびに、ミードの訳書、どちらも近年みすず書房から刊行されました。そうしたこともあり、今回対応する箇所をピックアップして抜粋集を作ってみました。

VII 文化、シンボル、言語

VII‐A シンボリックプロセス

(a)身体の見え

さて、シンボル生成に一番似ている類の動物の行動、つまり、「動物のジェスチャー」や「動物の儀式的行動」について簡潔に論じた後で、シンボル生成の問題へ進んでいこう。そうすれば、シンボル生成が動物に何を付加し、何を付加しないのか、手短に正確にわかるようになるだろう。 (ジェンドリン, 2023, p. 193; cf. Gendlin, 2018, p. 114)

社会科学の領域のうち、わたしたちが関心をもっているのは、ダーウィンによって切り開かれ、ヴントによってさらに洗練されてきた領域である。…ヴントは…ジェスチャーという非常に価値のある概念を取り出した。ジェスチャーはのちにシンボルとなるものであるが、社会的行為の初期の諸段階ではその行為の一部とみなされるべきものである。 (ミード, 2021, p. 45; cf. Mead, 1934, p. 42)


交尾、争い、巣-づくりや他の重要な行動の連続は、相手側の動物の、ある姿勢や音によって開始される。雄猫が別の雄猫を見ると、尻尾を膨らませ、シーッと威嚇したり、うなり声をあげたりする。これは相手の猫に、逃走か、闘いの-準備をするかのいずれかを引き起こす。 (ジェンドリン, 2023, p. 194; cf. Gendlin, 2018, p. 115)

たがいに敵対的態度で近づく犬はこうしたジェスチャーによる言語を交わしていると言える。双方の犬はたがいに相手のまわりを歩きながら、うなり声をあげ、噛みつくしぐさをし、攻撃の機会をうかがっている。…ある個体の態度がもう一方の個体のなかに反応を呼び起こし、この反応を見て今度は異なる近づきかたや異なる反応を呼び起こす。こうしたことが延々と続いてゆく。 (ミード, 2021, p. 16; cf. Mead, 1934, p. 14)


どちらの猫の行動、姿勢、声も相手を推進する。…ある猿が相手を殴ろうと腕を振り上げることは、その相手の闘いの-準備、そして闘うことを推進するだろう。 (ジェンドリン, 2023, p. 194; cf. Gendlin, 2018, p. 115)

こちら側に行為の初発段階に当たる一連の態度や動作があり、その態度や動作が刺激となって他者の反応が引き起こされる。その反応が始まると、今度はその反応行動が刺激となってこちらの態度に変化を引き起こし、異なる行為を採用させる。「ジェスチャー」は社会的行為の始まりを表していると言えそうだが、その意味はジェスチャーが他の個体の反応を引き起こす刺激になっているからというものだった。 (ミード, 2021, p. 46; cf. Mead, 1934, p. 43)


…身体の見え、動き、聞こえの小さな変化は、シンボルであるような事態にとても近づく。と言うのも、これらの小さな出現は行動文脈をまったく違うものに移動させる…からである。それにもかかわらず、これらは行動に過ぎないのであって、「~について」を構成しない。うなり声をあげることや背中を向けて走り去ること、相手を殴ろうとすることは、行動文脈の一部なのである。 (ジェンドリン, 2023, p. 195; cf. Gendlin, 2018, p. 116)

…ある犬が他の犬を攻撃しようとしていることが相手への刺激となり、そのことが初めの犬の体勢を変えさせたり、態度を変えさせたりするのである。初めの犬が攻撃態勢をとるとすぐに第二の犬の態度に変化が起こり、そのことが今度は初めの犬の態度を変化させる。ここにジェスチャーによる会話を見ることができる。しかし、こうしたジェスチャーは言葉の通常の意味で「意味を持っている」とは言いがたい。犬が「あいつがこっちから近づいて俺の喉にとびかかってきたら、俺はこうやって身をかわしてやろう」などとひとりごとを言うとは想定できないからだ。 (ミード, 2021, pp. 45-6; cf. Mead, 1934, p. 43)


(e)表現

動物たちはかなり多く表現するが、特別の行動を除き、それは私たち人間だけを推進する。したがって、動物たちは互いに対して表現してはいない。動物たちを推進するものは、動物たちが互いに行動することである。 (ジェンドリン, 2023, p. 205; cf. Gendlin, 2018, p. 122)

ダーウィンもジェスチャーには関心を持っていたが、その理由はジェスチャーが感情を表現しているからというものだった。ダーウィンはほとんどの場合、感情表現がジェスチャーの唯一の機能であるかのように扱った。…ジェスチャーは動物の感情を表現するものであり、主人と一緒の散歩をするときの犬の態度を見て、犬が喜んでいることを知ったわけだ。…ヴントにとって、ダーウィンの観点がジェスチャーの問題を考察するには的外れであることを示してみせるのはむずかしいことではなかった。表面上はともかくとしても、ジェスチャーの根本的な機能は感情表現にあるのではない。 (ミード, 2021, pp. 46-7; cf. Mead, 1934, pp. 43-4)

動物が情動を表現することを企てていると仮定するのはまったく不可能である。動物が他の動物のために情動を表現することを企てることはまずないのである。…これらの下等動物には感情を表現するための手段としての表情は存在し得ない。個々の心の中にある内容を表現するという観点からは、表情にアプローチすることはできない。 (ミード, 2021, p. 18; cf. Mead, 1934, p. 17)

いま目の前で、ある動物が怒り、攻撃をしかけようとしているとしよう。私たちはその動物の動きに怒りが含まれていることを知っており、その怒りは態度に表れている。しかしその動物の態度が、心のなかで攻撃を決意したという意味であるとは言えない。 (ミード, 2021, p. 48; cf. Mead, 1934, p. 45)


(f)新たな種類の推進

新たな連続は、真の意味でジェスチャーの連続と呼ぶことができる (一方、動物の “ジェスチャー” には、それが本当にジェスチャーではないということから引用符が付される) 。 (ジェンドリン, 2023, p. 206; cf. Gendlin, 2018, p. 122)

ジェスチャーは意識的である (意味を持つ) こともあるし、意識的でない (意味をもたない) こともありうる。ジェスチャーによる会話は人間以外の動物では意味をもたない。なぜなら、人間以外の動物のジェスチャーによる会話は意識を伴っていないからである。つまり、自我意識を伴っていない (not self-conscious) からである。 (とはいえ、感情とか感覚を含んでいるという意味では意識的である) 。 (ミード, 2021, p. 191; cf. Mead, 1934, p. 81)


おそらくもっとふつうの意味で、 “自己 (self)” という語を使うことができるような、特別なさらなる発展はある。しかし、自己と言われるような、他の内容から切り離された内容や実体がなくても (without there being an entity, a content, separate from other contents) 、自己-意識や自己の感覚があるのだと理解しておくことが、非常に重要になってくるだろう。 (ジェンドリン, 2023, p. 209; cf. Gendlin, 2018, p. 125)

ヴントが行き詰まるのは、社会的行為のプロセスにおけるコミュニケーションを説明するために、そのプロセスに先行するものとしての自我 (selves) を前提にしてしまっているからである。だが事態は逆で、自我が社会的行為のプロセスによって説明されなければならないのだ。 (ミード, 2021, p. 53; cf. Mead, 1934, pp. 49-50)

自我 (the self) は実体というよりもどちらかと言えばプロセスそのものである (not so much a substance as a process) 。すなわち、ジェスチャーによる会話が内在化され、身体化される (the conversation of gestures has been internalized within an organic form) プロセスである。このプロセスは単独で存在するものではなく、必ず個人を部分として含む社会組織全体の一局面としてある。 (ミード, 2021, p. 191; cf. Mead, 1934, p. 178)


これまでのところ、人間は、少なくとも二人の人間の相互作用の中でのみ、人間であり自己-意識的 (self-conscious) である。自分自身の身体の見えの推進を供給する能力は、もっと後で生じるのである。 (ジェンドリン, 2023, p. 210; cf. Gendlin, 2018, p. 125)

ここでわたしがとくに強調したいのは、自我意識を持つ (self-conscious) 個人に対して社会生活のプロセスは時間的にも論理的にも先行して存在しているということである。自我意識を持つ個人はそのプロセスのなかで立ち上がってくる。 (ミード, 2021, p. 199; cf. Mead, 1934, p. 187)


VII‐B 原言語

(c)秩序

(1) 最初のダンスでは、各々の身体の見えの全体が他者を推進する。他者がいないと連続は生じない。 (ジェンドリン, 2023, p. 257; cf. Gendlin, 2018, p. 155)

ジェスチャーはただ単独の個人の経験のなかにあるうちはジェスチャーとして存在することはできないのだ。…ある個体のジェスチャーの意味は他の個体の反応のなかに存在している。 (ミード, 2021, p. 157; cf. Mead, 1934, pp. 145-6)


(3) もし彼らが再び一緒になれば、その中の一人が対象に向かってジェスチャーをすると、その人のジェスチャーによって見ている他の人たちもまた推進される。(彼らはその人が何をジェスチャーしているのかがわかる。) (ジェンドリン, 2023, p. 257; cf. Gendlin, 2018, pp. 155-6)

…動物には刺激の領域内で分析された要素に注意を向けるという能力がないため、反応をコントロールすることができない。しかし、人は他の人に向かって「これ見て、ほら見てよ」と言うこともできれれば、自分の注意を特定の対象につなぎとめることもできる。 (ミード, 2021, p. 102; cf. Mead, 1934, p. 95)

一般にジェスチャーは…社会的行動の領域内で何らかの対象を指示している。その対象は当の社会的行為に関与しているすべての個人が共通に関心を持っており、言ってみれば、皆がその対象の当事者であるような対象である。 (ミード, 2021, p. 49; cf. Mead, 1934, p. 46)


第三段階以後の相互作用は、第一段階のものとはまったく異なる。今や、それぞれが他者のなすことを知っており (他者がなすことによって推進され)、また自分自身がなすことによっても推進される。 (ジェンドリン, 2023, p. 259; cf. Gendlin, 2018, p. 157)

…個人の行動やジェスチャーが相手にある反応を呼び起こすのと同様に、その当人にも同じ反応を呼び起こす傾向がなければならない…。犬のけんかの場合、このような現象は生じない。 (ミード, 2021, p. 74; cf. Mead, 1934, p. 68)

動物は人間とはちがい、他の動物に何かを指示したり、説明したりするとき、その何かとか意味を同時に自分自身に指示したり、説明したりはしていない。というのは…ここには意味の自覚とか自我意識という意味のでの意味は存在しないからである。 (ミード, 2021, pp. 87-8; cf. Mead, 1934, p. 81)

ジェスチャーの機能は当の社会的行為に関与している人びとのあいだでたがいに調整を可能にすることである。そのような調整ができるからこそ、行為の焦点となっている対象にみなが向き合うこともできるのである。意味を持つジェスチャー、あるいは意味を持つシンボルはこのような調整や再調整をおこなうための非常に有力な手段を提供しているわけだ。その点で、意味を持たないジェスチャーの場合とはくらべものにならない。なぜなら、あなた自身のなかにも、意味を持つジェスチャー (あるいはジェスチャーの意味) によってあなたとともに当の社会的行為に参加している他者のなかに呼び起こされるのと同じ態度が呼び起こされるからであり、またそれゆえ、あなたは (自分の行動の一要素としての) ジェスチャーに対する他者の態度を知ることができ、自分のなかに呼び起こされたこの態度をたよりに、他者の態度に対して次にどのような行動をとればよいかを調整することができるようになるからである。 (ミード, 2021, p. 49; cf. Mead, 1934, p. 46)

ある社会的行為や状況において、一方の個人がもう一方の個人に対して、ジェスチャーで何をすべきかを指示するとき、初めの個人が自分のジェスチャーの意味を意識している。あるいはジェスチャーの意味が自分の経験のなかに現れると言えるのは次のような場合にかぎられる。すなわち、初めの個人がジェスチャーに対する相手の態度を取り入れ、相手がジェスチャーに対して目に見える形で反応するのと同じ反応を内面でおこなっている場合である。 (ミード, 2021, p. 50; cf. Mead, 1934, p. 47)

わたしたちは自分自身の内側に呼び起こす何者かを他人のなかにも呼び起こしているわけであり、したがってわたしたちは無意識のうちにたがいの態度を取り入れていることになる。無意識のうちに自分を他人の立場に置いて、他人が行為するように行為しているわけだ。ここで考えたいのは、このことの一般的なメカニズムとはどのようなものかということである。というのは、そのメカニズムがいわゆる自我意識 (self-consciousness) の発達、および自我の出現 (the self) の出現にきわめて根本的な重要性をもっているからである。 (ミード, 2021, p. 75; cf. Mead, 1934, pp. 68-9)

動物の群れに見張り役は、その群れのなかで誰よりも匂いや音に敏感なものである。危険が接近すると、見張り役はまっ先に走り始め、他の者たちはそのあとに続いてゆく。…ここには一種の社会的刺激というかジェスチャーがあり、他の個体はその刺激に反応している。…見張り役は自分が信号を与える役だとは考えていないだろう。ただある瞬間に自分が走り出し、そのことにつられて他の者たちも走り始めただけのことである。 (ミード, 2021, pp. 202-3; cf. Mead, 1934, p. 190)


(f)の補遺 細部は脱落しない──普遍は空虚な共通性ではない

私たちが感じることは、相互作用的であり——状況の中で——他者と生きていることと関係している。(隠者でさえ、他者から離れた状況の中にいるのだ。単独でのさらなる発展はもちろん可能だが、それは、相互作用的な人間の本性という基盤の上で可能なのである。) (ジェンドリン, 2023, p. 313; cf. Gendlin, 2018, p. 193)

自我 (self) がいったん生まれると、自我はある意味で自我自体のために社会的経験を提供もするし、そのため完全に孤立した自我という考えを抱くこともできるようになる。しかし、社会的経験の外部に出現する自我などというものを想像することはできない。ただ、いったん自我が生じたあとであれば、余生を孤独に牢獄のうちに過ごす人を想像することもできないわけではない。しかし、その場合でもその人は自分自身を友として、自分を相手に考えたり、会話をしたりすることができる。他者とのコミュニケーションと同じようにだ。 (ミード, 2021, p. 151; cf. Mead, 1934, p. 140)


文献

Gendlin, E. T. (1958). The Function of Experiencing in Symbolization. Doctoral dissertation. University of Chicago, Department of Philosophy.

Gendlin, E. T. (2018). A process model. Northwestern University Press. ユージン・T・ジェンドリン [著] ; 村里忠之・末武康弘・得丸智子 [訳] (2023). プロセスモデル : 暗在性の哲学 みすず書房.

Mead, G. H. (1934). Mind, self, and society: from the standpoint of a social behaviorist. (edited by C.W. Morris). University of Chicago Press. ジョージ・ハーバート・ミード [著] ; 山本雄二 [訳] (2021). 精神・自我・社会 みすず書房.

田中秀男 (2023, October). 「ジェンドリン・シンポジウム2023」発表スライドと引用文の日本語訳.

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