詩人の推敲
ジェンドリンは、詩人による「書いては消し、書いては消し」というプロセスについてよく論じています。このプロセスが「パターンを超えて思考すること (TBP)」(Gendlin, 1991) と『体験過程と意味の創造 (ECM)』(Gendlin, 1962/1997) でどのように考察されているのか、そしてそれらの考察が互いにどのように対応しているのかを私は検討してみました。
以下は「パターンを超えて思考すること (TBP)」(Gendlin, 1991) の有名な段落です:
推敲のプロセスを彼の初期の『体験過程と意味の創造』(Gendlin, 1962/1997) の用語に置き換えるなら、詩人がファイナル・アンサーを出すときだけでなく、「非常に多くの行がやって来ては却下される」プロセスの途中であっても、機能的関係は把握 (comprehension) であると言えるでしょう。
まず、もし詩人が自分の感じられた意味 (フェルトセンス) を言うことができたなら、シンボルが感じられた意味を把握したと言えるのは当然のことでしょう:
しかし、もし感じられた意味が判定者として機能するのであれば、その機能的関係は、私たちが自分が言いたかったことを言ったと最終的に感じる時だけでなく、自分が言いたかったことを言えなかったと感じる時であっても把握ということになる、とジェンドリンは論じています:
以上を踏まえて、現時点での私の解釈は以下の通りです: まず、新しい言い回しである非常に多くの行がやって来る時、感じられた意味は新しい言い回しの選択者として機能する。次に、そうした行が却下される時、感じられた意味は新しい言い回しの判定者として機能する。もし、初期の『体験過程と意味の創造』における用語法がのちの「パターンを超えて思考すること」においても放棄されなかったと仮定するならば、推敲プロセスにおける主な機能関係は把握である。
もちろん、このような推敲のプロセスで機能するのは把握だけではないでしょう。古い行が却下されて新しい行がやって来るまでの「移行」(Gendlin, 1962/1997, pp.171-2)においては、その途中で情報の空白 (......) がしばしば生じます。詩人が「[古い行の] 特定された意味を離れ、感じられた意味へと向かう」(Gendlin, 1962/1997, p. 172; cf. 田中, 2021, p. 214)時、それは意図的な (deliberate) 直接参照であり、それを私たちは創造的遡行 (creative regress) と呼ぶことができるでしょう。なぜなら、詩人が特定された意味から離れたのであれば、感じられた意味は判定者として機能することができないので、機能的関係を把握とは呼ぶべきではないからです。
P.S.
詩人だけでなく、作曲家においても「非常に多くのモチーフがやって来ては却下される」というプロセスが生じているのは、下記の動画で高名な指揮者、ジョン・エリオット・ガーディナーが言っている通りだと思います:
「ベートーヴェンは先の3つの楽章の断片をおさらいし、一つ一つ却下していくのです」 (Gardiner, 2020; cf. 田中, 2020, November)
参考文献
Gardiner, J. E. (2020). Symphony No. 9: 'Up above the stars he must dwell', Retrieved from the official YouTube channel of Monteverdi Choir and Orchestras.
Gendlin, E. T. (1962/1997). Experiencing and the creation of meaning: a philosophical and psychological approach to the subjective (Paper ed.). Northwestern University Press.
Gendlin, E. T. (1991). Thinking beyond patterns: Body, language and situations. In B. den Ouden, & M. Moen (Eds.), The Presence of Feeling in Thought (pp. 21–151). Peter Lang.
田中秀男 (2018). “この感じ”という直接参照:フォーカシングにおける短い沈黙をめぐって. 人間性心理学研究, 35(2), pp. 209-19.
田中秀男 (2020, November). ベートーベンの『第九』をフォーカシング的に聴く : 公式動画で解説.
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