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「体験過程」の漠然としたイメージ: ジェイムズやベルクソンをてがかりに

ジェンドリンの著作では、「体験過程 (experiencing)」は、「単位となった体験 (a unit experience)」とは対照的に、数えられない名詞として使われることがほとんどです。

ディルタイの言う "erleben"(体験する)とは、プロセスや機能のことをさす。ディルタイのErlebnisという言葉は、単位となった体験 (a unit experience)を意味する。(Gendlin, 1950, p. 13)。

そして、動詞erlebenをそのまま名詞形にしたdas Erlebenの時にも、ジェンドリンはexperiencingという独自の英訳語を当てています。

体験過程は、2つ、5つ、あるいは100万もの単位となった体験から成り立っているわけでもない。単位などないのだ。単位となった体験のようなものは常に産物であり、体験された産出と選択を具現化しているのだ。(Gendlin, 1962/1997, p. 153)。

しかし、数えられない、流れとしての体験過程という発想を理解するためには、ヴィルヘルム・ディルタイの著作よりも、ウィリアム・ジェイムズやアンリ・ベルクソンの著作をむしろ私は参考にしています。

まず、ジェイムズの「意識の流れ」という考え方はもちろん参考になります。

意識は断片的に切られて現れるものではない。「鎖」とか「列 (train)」という言葉は、それを聞いた最初の印象の意味では、意識を適切に言い表してはいない。意識は断片をつないだものではなく、流れているのである。「川」あるいは「流れ」という比喩がこれをもっとも自然に言い表している。今後これについて語るとき、我々はこれを考えの流れ、意識の流れ、あるいは主観的生活の流れと呼ぶことにしたい。(ジェイムズ, 1992, p. 222)

次に、「体験過程」のこうした特徴を直観的に理解する上で、私を助けてくれたものをもう一つ挙げましょう。ベルクソンが彼独自の「持続」という切れ目のない原初的な状態について論じているところです。

それは鋭く断ち切られた結晶や凝固した表面の下にあって、かつて私が見たどのような流れとも比べられない連続的な流れである。それは継起する諸状態であり、そのいずれの状態も次にくる状態を予告し、先立つ状態を含んでいる。本当を言えば、それらが多様な状態を形成するのは、私がそれらをすでに経験し、それらの痕跡を見ようとして背後をふり向くときである。 (ベルクソン, 2013, pp. 259–60)

ただし、ジェンドリンは、ベルクソンと違って、「言葉や概念は信頼できない」とか、「空間化されていない純粋な時間——『持続』が優位である」という立場には立っていません。


文献

アンリ・ベルクソン [著]; 原章二 [訳] (2013). 思考と動き. 平凡社

Gendlin, E. T. (1950). Wilhelm Dilthey and the problem of comprehending human significance in the science of man. MA Thesis, Department of Philosophy, University of Chicago.

Gendlin, E. T. (1962/1997). Experiencing and the creation of meaning: a philosophical and psychological approach to the subjective (Paper ed.). Northwestern University Press.

ウィリアム・ジェイムズ [著]; 今田寛 [訳] (1992). 心理学 (上). 岩波書店.

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