漂泊幾花 外伝 ~般若理趣義解3~
Scene5 御前様
ほどなくタクシーが喚ばれ、咲は車中の人となった。
「ほな、咲はん、御前様によろしゅう。」
「ありがとうございます、綾さん。」
なにやら狐につままれた感じで、咲は六波羅にあるという「御前様」の寺に向かった。
「・・・なに?・・」
咲はタクシーが乗り付けた寺の門前で言葉を失った。そこは重要文化財にもなろうかというような古刹だった。ところが、その門の前で、あの「御前様」がわざわざ出迎えていたのだった。この状況に咲は混乱していた。
「あんじょう!!、嬢はん、久しぶりやな!!」
御前様は手を挙げて、屈託のない感じで咲に声をかけた。
「・・・・お久しぶりです・・・。」
そう答えるのがやっとだった。
「よう来はった、必ず来る思うとった。」
「あたしも、お会いしたかった。」
「あはは、そらよかった、よかった。まぁ、お入んなさい。」
御前様は、咲をそのまま庫裡に案内した。
(あたし、このお坊さまかなりなめてたかも・・)
と言うくらい、世話役と思わせる僧が、下足だの案内だの世話を焼いて、そのたびごとに「御前様」は咲に対する世話を指示した。そのたびに咲は恐縮するばかりで何かしら落ち着かない場違いな感じを感じていた。
庫裡の一室で、咲は御前様と対面した。御前様は咲にニコニコした顔で切り出した。
「嬢はん、ええ顔しとる。わしは「悠雲」というモノや、嬢はんの名はなんというのや?」
「はい、浦上咲といいます。」
「ほう、咲はんいいますな。ええ名やの。」
「ありがとうございます。」
「で、咲はんは、わしになにを訊きたいのかの。」
「はい、以前、御前様に、渡された宿題の答えを聞いていただきたいと思いまして。」
悠雲御前はニヤリと顔をほころばせて
「どうじゃった?」と訊いた。
咲は、静かに答えた。
「わからないということがわかりました。それと、すべてのものにムダはなく、美しく輝くものだと。」
悠雲御前は、そこでぽんと膝を叩いた。
「そのとおりや、なにゆえわかった?」
むしろ驚いた体で咲にそのいきさつを尋ねた。咲は、耕作に対して突き付けた「ふじ色の旅立ち」からはじまり、京都でのいきさつや長崎のこと、そして、三十三間堂で考えたこと。それらありったけのことを悠雲御前に蕩々と話した。そして、
「本当のことがわかってないんだな、という事が本当にわかったんです。だから、御前様にお会いしたかった。」
と、結んだ。
悠雲御前は、じっと腕組みをしながら。
「それで、よろし。」
とだけ言い、あの日と同じようなめいっぱいの笑みを咲に注いだ。咲は思わず涙があふれ出ていた。
「だが、それだけではあるまい。」
悠雲御前は静かに、かつ厳かに言った。
「はい・・。」
咲はそう答えた。
「新しい命に対する思いッちゅうところやな。」
「畏れ入ります。」
そして、咲は前に渡された墨書を取りだし、悠雲御前の前に広げてこう言った。
「わかったようなのですが、わかりません。特に今は。」
と、新しい命を予感する自分の腹に手をやった。
「実は、あたし、まだ母親になる自信がまったくないんです。恥ずかしながら、欲にまみれてその因を作っておきながら・・・、です。」
「・・ほう・・。」
「あたしの母の血や命の記憶が、あたしには重すぎるというか・・。」
「なにゆえ、そう考えるのや?」
「あたしという存在自体を見つけにいったのに、それがもらえるはずだった祖父母には、真の意味では認めてもらえませんでした。むしろ・・・否定された。そして、伝え聞いた実母の残した言葉も、いまさらに重い。」
「ふむ」
「それは・・御前様とお会いした日の事でした。」
「そやったか・・、それはつらかろうな。・・しゃが、あの日のお前さんは、何故かええ顔しとったな。理由はようわからんが、ええ顔じゃった。」
御前様はそう言うと、中空を見た。
「そうやな、・・・・あんたは、どこから来て・・・、どこに行こうとしておるのか。・・・それを過去に頼ることなく、しっかり前を見て、前にも後にも、起こったこと、起こることのすべてが、平等で美しい菩薩の境地であるということを考えるコトじゃ・・。そして、それは、あんたの腹の中の命の縁にも、これから伝わることにもなる。・・・。それがわかれば、囚われてさがすものなぞ何もないことに気付くじゃろうなぁ。」
咲は、何か打たれたように御前様を見つめた。
「そうか・・、あたしは少なくとも否定されてはいない。」
「ほうや、むしろ否定したんは、あんた自身の心や。そしてその否定する心ちゅうか、そのものを改めて否定するのや。・・どや、あれが書き付けた文の正体やで。すなわち、否定を否定するのや。」
咲は、何か打たれたように御前様を見つめた。
「あの・・、軒先でいいんですが、もう一日ここに留めていただいて、御前様のお言葉、もうすこし聴かせてくださいませんでしょうか?」
「ほっほほほほ!、よろしがな。じゃが、だだではあかんで。かかかか・・・。ほな早速、庫裡の作務でも手伝うてもらいまっかな。」
「ハイ!」