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第2段 未完という愉しみ
「to be continue」すなわち「つづく」ですが、子供の頃TV番組でも、いまのドラマでも、上手くこの効果が使われています。
たとえば何かを観たかったら、なにがしかの障壁があれば、その欲求は高まるものです。ネットゲームの「課金」も、この原理を使っています。
人は「見ちゃダメ」と言われるほど「見たい」という願望がはたらきます。いわゆる「カリギュラ効果」というヤツです。
最近のドラマとかアニメなんかは、「起承転結」ではなく、「結起承転」で構成している場合が多く見られます。
すなわち、「この運命やいかに・・」と言う展開です。実はこのことが、次回への期待感を膨らます効果になっているのですね。
あたしも、結局いま「独居老人」みたいな感じで扱われていますし、そうか、こいつが「余生」というもんなのだ。とも感じることがあります。
そうなると、あたしのいまは、「起承転結」のどの段階なのだ?。という疑問が湧いてきますね。
「転」を一体何をもって充てるのか。そこが大きな課題なのですな。これの配分をどう考えるかで、「人生」の意味が見えてくるような気がするのです。
自分を基準とするなら、「転」は、たとえば様々な人生イベントの節目にあたりましょうね。そうなると、最終回の起承転結は、あの世に行く時ということになります。
死を意味する「臨終」とは、「終わりに臨む」という意味ですから、本当のthe endです。
その昔「巨人の星」というアニメが最終回を迎えたとき、エンドロールのあとにキャスト全員が登場して、主人公の星飛雄馬が「いままでありがとうございました」と挨拶しますが、そんなものです。
ところが数年後に、「新・巨人の星」と銘打って、野球選手をやめたはずの星飛雄馬が再び活躍するアニメが放映されます。
であるならば、前回の最終回は「結」ではなく次のステップへの「転」であるというわけです。縁起説だと「結」は同時に「起」となる訳です。時計でいえば24時=0時という理屈です。
あたしたちの「存在」が、宇宙の営みとしての一つの表れだと思えば、もしかしたら、他界という言葉もあてはまらないのかもしれません。
むしろ、新たな「起」を生む「縁」として、この肉体が消滅するのだ。というようなことが言えるのかも知れません。それが自然の摂理だからです。
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つまり宇宙の視座からいえば、この人生は「未完」であるというわけです。天然自然の因縁に委ねれば、「お迎え」はそんなに怖いことでもないでしょう。逆に「なるようになる」わけなのですから、世をはかなんで望んだり急ぐ必要もないのです。
なんだか、葬式説教のような感じになりましたが、最近はとみにこのようなことを思索することが多くなったような気がします。
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