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漂泊幾花 【ふじ色の旅立ちその3~金木犀】

 自由ケ丘の駅で僕らは別れてそれぞれの家に戻った。僕の腕には、咲の移り香がふんわりと残っていた。
 だが、もうすぐ死ぬという言葉がみょうに気になって何だか咲がひどくいとおしく感じていた。
 僕は置きっぱなしにしていたチャリンコを取りにいかなけりゃと思い、電車に乗ろうとしたが、また渋谷に出るのだけはひどく億劫に思った。
結局、環八を横切って駒澤公園まで歩くことにした。

 もっとも、この時期のこの住宅街を歩くことは非常に気に入っていた。

金木犀の薫りがあちこちに漂っていた。
そのひとつひとつに思いを巡らせながら、早春の住宅地を歩いた。

 この町並みは故郷のそれに似ていた。
僕はもう二度と戻るまいと思い立って東京に出てきたのだった。
そこで恋人に会い、恋人を今いとおしんで歩いている。
故郷に戻る家はなく、戻る家と言えば、多分それは咲そのものだろうと僕は今考え始めていた。
 だから、たとえば咲がもしこの世からいなくなれば、
僕は寄る辺ない漂泊者ボヘミアンになるだろう。
・・・ だからこそ、咲のあの言葉が妙に気になっていたのだった。

(どういうことなんだろう)

 僕の生育歴が良くなかった。ずっと得られると思ったものは、いつも泡のように潰え去った。僕の心の中には永遠にという言葉はとっくに消えていた。いつも喪失感がそこにあったのだ。それはその対象が咲であっても同じかも知れなかった。ずっと抱いていて欲しいと言ったその矢先で、彼女はまた喪失の予感を僕に残していった。人は、愛着のあるものと別れ、憎きことと遭わなければならないと言うことは確かに真実なのだった。これは紛れもないデュッカなのだ。僕はひどく彼女の存在の喪失を恐れた。

         *   *    *    *

「先ぱーーい、お早う!」
咲の声で目が覚めた、気がつくとそこに咲の深い瞳が僕をのぞき込んでいた。
「不用心だなーー、鍵もかけないで寝てるなんて!」
「え・・・?ああ・・・、今日は休みなのに・・・。」

 「なによーー、今日はあたしの晴れ舞台だぞ。」
「何が?」
「あたし、見てわからない?」

そういえば咲は妙にめかし込んでいるうえ、化粧までしている。制服の彼女を見慣れている僕は少し驚いた。

「どうしたんだ?その格好。」
「やだ!先輩の所にお嫁入りよ。」

そう言ってけらけらと笑った。

「バカめ・・・」
僕はそういうと布団をかぶった。
咲はその布団越しに僕にまたがると、僕に抱きつきながら言った。

「先輩は休みだけど、あたしは休みじゃないんだな、これが・・・。」
「あ、そうか!」

今日はうちの大学の入学式だった。

「そうです、先輩。」
「ついていってやろうか?」
「いいえ、結構です。大学の入学式に保護者が行くなんてバカまるだしだわ。」
「あら?いつから保護者なんだ?」
「だって先輩はお兄ちゃんみたいなものでしょ?」
「へぇ・・・。」
「でも、疲れると思うから、帰りにここに寄るわ、寝ちゃうかも知れない。」
「そんなばあさんみたいな・・。」
「ううん、本当よ、だから、部屋にいてね。」
咲は、さっきの冗談めかした言葉を妙にまじめな顔で僕に告げた。
「じゃ、行くね。」
「うん、おめでとう。」
「疲れてなけりゃ、ここで疲れてあげてもいいわよ・・うふふ・・・。」
咲は、またいつものウイットに戻った。本当に何を考えているのかわからない。

二時間ほどあと、咲はまた部屋に現れた。

「びっくりしちゃった。カルチャーショックだわ、さすが仏教の大学ね。お坊さんが挨拶するんだもの。」
「そりゃそうだ、キリスト教どっぷりの君にはびっくりするかも知れないな。」
「知らない世界があるのね・・・」
咲は、僕のベッドに腰掛けると、大きく伸びをした。

「やっぱり疲れたわ。」
そう言ってそのままころんと横になったかと思うと、数分も経たないうちに小さな寝息をたて始めてしまった。

(こいつ、本当に疲れたんだ)

僕はそう思った。化粧はしていても、その寝顔はまだ少女のそれだった。まだ昼を過ぎたばかりだった。僕はもうちょっとその無邪気な寝顔につき合うことに決めていた。咲は、くうくうと小さな寝息をたてながら小一時間ほど眠り続けていた。咲が目覚めたのは、すでに日が傾き始めた頃だった。

「ごめんなさい・・・あたし、寝ちゃった。」
「すごいいびきだった。」
「うそだぁ・・」
咲は笑った。しかし心なしかやつれたような顔になっているのは気のせいなんだろうか。咲の横顔は夕日に映えてまぶしい。
「あたし、お化粧上手でしょ?」
「うーーーん。」
僕はあまり化粧顔が好きではなかったから、咲のルージュを引いた唇や、アイシャドウが際だつ目元は、本来の咲でないような気がしてはいた。しかし、少女の時を過ぎた咲が、確かにそこにいたことだけは充分実感できた。 

その時、ドアがけたたましくノックされた。
「耕作ぅ、いるか?」
咲は一瞬ぎょっとして、寝乱れたスカートをそそくさとなおした。僕は静かにほほえんで、あわてるなという仕草を咲に送った。

「いるど!」

僕はドアを開けた、ドアの向こうには髭面の薄汚い男が立っていた。
「おう!耕作!今日はおまえの学校の入学式だから、新入生の特別オルグに来たんだがよ!なんだ?お前んとこは!」
「なんだ、純か。まだ京都に帰ってなかったのか。・・・・いいや、まああがれ」

という前に、村野純はすでにあがり、驚くような美少女の姿に目が釘付けになっていた。

「耕作、誰だ?この人・・・。」
「その前に、おめぇが自己紹介したらどうだ。」
「したけどもよ・・・はずかしいべ。」
「ばーーか。ガラかよ。」

 そのやりとりをぽかんと聞いていた咲は、やがて、おかしくてたまらないと言った表情で笑い転げた。
「あっはっはっはっはっは、おかしい!」

          *   *    *    *

「ごめんなさい、失礼しました。はじめまして、あたし、浦上咲といいます。」
咲はベッドの上でちょこんと正座をして村野純に向かって言った。純は落ちつかない様子で伸び放題になった髭をなでつつ、
「おい・・・どういう関係だ?」
と僕をつついた。
「どうでもいいから、自己紹介したらどうだ?」
純はうつむきつつ、しっかり咲を見ながら、
「な、何が・・・おかしかったんですか?」
と聞いた。咲は、またはじけたようにげらげら笑い始めた。

 「し、失礼だべ、君!人が質問してるのに、誠意ある回答を述べたらどうだ。自己反省しろ。」

 純のいつものアジ口調がはじまった。どうも、これは純の照れ隠しのようだった。
「うふふ、ごめんなさい、だって、先輩、あなたと話をしてる時って、もろに田舎言葉になるから・・・。」
僕と純はお互いに顔を見合わせてにやりとしてしまった。

「あー、僕は、村野純といいます。目下京都の同命館大にいます。この柴田耕作とは高校時代の同級生の仲です初めまして、えーーっと」
「浦上咲です」
「あ、浦上君!・・・・ところでなぜ君はこのへやにいるんで・・、耕作とはどんな関係・・・。」

咲はそこまで純がいうと、じっと純を見据えてゆっくりと言った。

「それはそっくりお返しします、京都の学生のあなたがどうしてここに?。それもあたしたちの入学式の時、しつこくアジ演説してましたよね。どんな理由なの?」
純はぎょっとして咲を見た。この勝負はどう見ても咲の勝ちだった。
「それはだな・・・。」
「待って、長くなりそうだから、いいわ。それより村野さんの質問に答えてあげる。」
純は完全に翻弄されていた。僕は逆におかしくなった。純のこんな顔を見たのは久しぶりだった。
「あたし、耕作先輩のいいひと・・なんです、うふふふ。これで、ここにいる理由はご理解いただけたかしら。」

「やられた・・・」

純はぽかんと口を開けて咲を見て言った。
「純、咲はオルグできないよ。」
僕は笑いながらそういった。
小一時間、純は僕の部屋で話をしていった。純はもう下火になったかのような学生運動にあこがれていた。成田空港の紛争とかで、1カ月くらい前からわざわざこっちへ来てあちこち奔走していた。僕は学生運動こそあまり興味はなかったが、純のひたむきさはなんとなく好感を持っていた。

「ブルジョアは嫌いなんだ。」

純ははき捨てるように言った。だが、純の実家は故郷でも指折りの資産家である。僕自身、純がどうしてこんなに東西奔走していられるのか理解に苦しんだ。どこにそんな資金があるというのか。もし、親に出してもらっているとしたならば、自分の汗であがなう労働者としては恥ずかしいとも思う。それは所詮、学生の革命ごっこでしかないからである。一時、「親からのカネはそっくり組織に渡してある。」と純は誇らしげに言ったことがある。親のカネは労働者から搾取したものなんだから、そうしたって当たり前なのだとも言った。しかし、僕はどうしてもそこがひっっかかっていたのは確かだ。

「学校はどうしてるんですか?」

咲は純に聞いた。純は、豪快に笑った。
「ははははは、留年が決まった。」
そう吐き捨てた。咲は最前からやや不機嫌な顔を見せながら、厳しい質問を純にしはじめた。
「よく、いろいろ動けますね、アルバイトなんかしてるんですか?。」
「いいや、アルバイトの暇はないんだ。宿は、同志が提供してくれるし、組織から学生の活動費は出てるんだ。今は、それが一番の使命だからさ。」

「ふうん。」

咲はそういうと何となく軽蔑したような、そして哀れんだような顔を純に見せた。僕は咲の暴走が始まると思った。この娘は、時として相手がぐうの音も出ないような正論を突きつけて人を困らせるのが得意だからだ。こういう顔をしたときが一番危ない。
「じゃ、労働者の気持ちなんて解りませんわね。」
「え・・・・?」
「解ったような気になってるだけ・・・。そう言うことかもね。」
「・・・・・・。」
純は黙ってしまったが、その表情は戸惑いと、腹立たしさと、焦燥感とが複雑に入り乱れていた。
「だいたい組織って何かしら。活動費もらってるんなら、活動費ってそもそも誰が出したものかご存じ?。」
「それは・・ある党から・・・。」
咲はその時、けらけらと笑い転げた。

「以降次回」

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