「悟り」のフィールドをどこに置くか 考察②~
世俗と理想は、はなから矛盾を生む
「鎮護国家」という古代東アジアの「共通理念」は
戦乱のない秩序のある世の中の建設という理想においては
有効な理念だったのかも知れません。
確かに現世において「仏国土」を現出させて
あまねく衆生を救済するのが国家としてのあり方である。
という思想は間違ってはいないと思いますし、
今も形は変えてはいますけれど、根本的な「政治理念」は
まさにそれを目指していると思って間違いないと思うのです。
しかしながら、こういった「世俗」はあたりまえのように
「欲」というものと切っては切り離せない関係にあると
いっていいのかも知れません。
こういったことから
「奈良仏教」の政治との癒着が始まったのかも知れません
政治は本来「俗」であるがゆえに、
どうしてもそういった「堕落」が生まれるのは仕方のないことです。
僧籍が国家資格になってしまうと、無理もない事です。
これがいいか悪いかなどは、誰にも言えないことですけれどね。
しかしながら「宗教」というものは
あくまでも「純粋」を求めるものです。
現代で言うならば、「仏教原理主義」とでも言いましょうか
西欧の宗教改革にも似たような動きが、日本でもあったわけです。
以前にもお話ししましたが、「最澄」と「空海」のお双方です。
これは以前の記事に説明を譲るとしましょう。
ただ、彼らの主張に共通していることは、
あくまでも「瞑想」と「悟り」であり、それを実現できる
「仏国土」は、ここにあって、それが、宇宙か来世か現世か内面か・・。ということであったというわけです。
これがつまり「日本仏教」の根幹です
ここで基礎になる「経典」が、
華厳経、大日経、法華経、般若経、
さらには無量寿経というものにもつながっているのではないか。
あたし自身はそう考えておるわけです。
そしてそれが、「鎌倉仏教」という、
ユニークなものに発展していくわけです。
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