人を殺してはならないという理由は何か
「殺人は良くないことである。」
この命題は誰もが同意することです。ところがそれはなぜかと尋ねると、大きく二つの意見に別れます。
「人を殺したら罪に問われるから」という意見と、
「そもそも人を殺してはならない」というものです。
これは「倫理道徳」を考える上では当然現れるものです。前者を「目的論」とよび、後者を「義務論」とよびます。
そして、二つの意見はどちらも「正しい」事であるからです。
しかし、その正しさとは何でしょう?
正しさが担保された世界は、人々の心の安心を生みます。自分は「正義」の側にいると思えることが「不安」を払拭できるからです。
目的論では、「正しさ」の基準が重要になりますが、その基準には二つの考えが生まれます。
一つは、たとえば「人を殺さなければ罰を受けることはない」といういわゆる「安心」です。
ですから、こういった考えが広がれば「殺人」は防止できるという考えを「帰結主義」といいます。
ベンサムという哲学者が「最大多数の幸福」という表現でこのことを述べています。いわゆる功利主義という考えです。
また、「罪」自体を考えれば、罪を犯さなければよりよい人生が送れるからだ。という考え方もできます。
いい人生を送るには、罪を犯してはいけないという考え方です。
こういった「徳」を持つこと。この考えを「徳倫理学」
と言います。
ですから、そのためには知恵や思慮、誇りや節制などの実践が必要であるという考え方です。
その基準で言えば「殺人は罪となる」という結論に至るわけです。
しかし、今度は次の課題が見えます。
すなわち、「戦争」においての殺戮は是か非かというものです。これはとても難しい課題です。
たとえばカントは、社会全体の幸福は、人々は相互に尊重することによって実現すると言います。そのために人は、そもそも与えらた自らの義務を果たすべきである。と。
これは古今東西、共通なものかもしれません。たとえば、儒教だと。
この観点から言ってもカントの考えは「反戦」のテーゼにはなるでしょう
しかしながら戦争とは、この考えとは真逆の思想から始まります。つまり、自らの正義を果たす手段として、相手を屈服させるわけですから、その目的のためには「殺人」も肯定されるわけです。
それが、「義務」だと、「軍人」は言います。ですが、殺人を命ずるものは、その現場にはいません。
ですから、直接殺人行為を行う兵士に、果たしてこの論理が通用するかです。おそらく「命令」という「正義」がそれを正当化するわけです。
さて、現実社会はどうでしょう。
自分だけが」良ければいいという考えが、国家レベルで広がっています。
抗う人々は互いに「正義」を唱えます。しかし、あたし個人はどちらの「正義」にも与する気はありません。
さらに言うなら、国家どころかあたしたちの日常にも「細かな正義」がはびこってます。
彼らは秘密警察まがいです。まさに「義務」そのものもあやしい。
まさにやるせない状況です。正直言うとどちらもいいとも悪いとも言えませんが、はてさて、人に限らず「命」は最優先に守られるものなのではないか。ということは言えます。また、さらに言うならば、いまは「こころの命」も守らねばならない状況でもあるでしょう。すなわち、これが本来の「義務論」の根底なのかもしれません。
現代における「不安」の正体は、意外とこういうところにあるのかもしれませんね。
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