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「真実はただひとつ」


探偵アニメの中で、主人公の少年が決めぜりふで言う言葉です。

さて、そうなると「真実」とはいったい何なのでしょう。

「真実不虚、故説般若波羅蜜多」

般若心経

 この一文は、その前段もありますが、智慧すなわち他ならぬ「真実」そのものを示しているのだ。という最後の結びとしています。

 空は即ち色である。という真実は、現実としてある物だという認識こそが「真の智慧」だという意味です。ぶっちゃけると、起こったものはすなわち事実であるが、その事実はそもそも常に変化して形はとどめない物。そういう現象こそが真実である。という捉えです。この認識が般若Prajñāというわけですね。

 そして、それを直視し受け止めることが波羅蜜多pāramitāであるとし、このことを総称して「智慧」とかसंस्कृतम्という表現をします。

なんだか抽象的なので、もっとわかりやすくくだいてみましょう。

そもそもゴータマ・ブッダが説いた、真理アビダルマがその基本になります。これを「三法印」といいいます。
 さて、この三法印とは、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静。という言葉で表されます。ぶっちゃけると、
 「現象は、すべて変化する」「ものごとは、思い通りにはならない」 「これを受け入れることが安らぎである」
ということになります。これを「覚る」ことが「般若波羅蜜多」というわけです。

人は、どうしようもない出来事に出会ったとき、自分に都合のいい利益や理由いいわけを願うものです。
ですが、本当のところ、この心の動きは真実とは相反します。すなわち、起こりうるべき物を受け入れなかったり、思い通りになることを望みます。ですが、これらは結局むなしい物です。そういうムダな思いを「煩悩」といい、その具体を「三毒」という言葉で表します。すなわちむさぼり」「いかり」「おろかな状態をいいます。わかりやすくいうと、そもそも実体のないものに拘ったり、比べたり羨んだりしている状態です。

 しかも、これは生きている限りなくなるものではないということも、紛れもない真実ですから、完全に消し去るものではありません。つまりこういった煩悩にすら、きちんと向き合わないことには、真理に至る智慧般若波羅蜜多は得ることはないのです。

 しかもこのことは「得た」ということですら「無常」ですから、実体ではないわけです。

かくいうあたしも、仕事に行き詰まり、ストレスから咳が止まらないという症状に悩まされた事がありました。当時は「心身症」という認識もなく、医者も原因不明だとさじを投げる有様でした。
 さんざん病院巡りのあと、すっと思ったのが、「咳が止まらなくて死んだらそれまで、苦しいことから逃れるより、それはそれで受け止めよう。」
 ということでした。つまり「なるようになろう」と心を放下したのです。

 そう考えたあと、咳き込むこともそれはそれで受け止めよう。とにかく「かくあらねばならぬ」という心の縛りを解いてみたのです。そういう境地になると、不思議と症状が軽くなったのを覚えています。
 ただ、たぶんそれが理由で「たばこをやめた」からなのかもしれませんが、「ただ受け止める」ということは、ひょっとしたら心を楽にするのかもしれないな。

 そんな事を感じたのをふと思いだしました。むろん、瞬間の境地はもう忘れてしまいましたが、まぁ、それはそれでいいのだろうと思います。ましてや言葉で他人に知らせるものでもないからです。それぞれの心が自ら「覚る」しかありません。
 なんせ、真理に対する「覚り」そのものも「無常」であるからです。

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