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「法界定印」 =大安心のメッセージ
座禅を組むとき、手を身体の中心において親指そっとあわせ、左右の手で一つの器を作るように手を合わせる。これを「禅定印」といいます。
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仏像を観ると気づくと思いますが、様々な手の組み方や、パフォーマンスをしています。
あたしたちも、プレゼンするときにジェスチャーして、アピールするのと同じく、各仏像もじつはこの「印相
」でおのが思いをアピールしているのです。
それゆえ、仏像に接するとき、その印相を観ることで、その仏様のメッセージをくみ取ることができるというわけです。
この意味はおのおの様々ありますが、これはけっこう膨大な紙面を要しますので、別の機会に譲ることとします。
さて、いま述べました「禅定印」ですが、一般には「定印」と呼ばれ、仏陀の悟りを表しています。
すなわちこれが「空」を現しているわけです。
禅は、仏教の基本である「止観」の実践法の一つです。そして、なにゆえ「定印」を組むのか。
すなわち、それが「真理」の象徴ともいえるからです。
ですから、宇宙の真理を象徴する大日如来が組んでいる「定印」は特に「法界定印」という呼ばれ方をしています。それこそ、その印相が「悟り」の象徴であるというわけですな。
前回、「不安」について考察しましたが、今回は達磨が慧可に示した「大安心」の正体を「禅」の観点から考察して参りましょう。
それでは「定印」を悟りの姿だと規定する、あたしなりの根拠を述べてみます。
まず、仏教の根本である「三法印」をおさらいします。
諸行無常・・ すべての物は常に移り変わり同じ状態でいることはない
諸法無我・・ すべての現象は己が認識する実体としては存在しない。
寂静涅槃・・ 超越した真実を俯瞰することが、安らぎの境地である
「定印」のメッセージは「心を鎮めよ」ですが、あたし個人の感想としては「寂静涅槃」が象徴された形なのではないか。そう考えたのです。
かつて「禅」の実習をしたとき、導師から
「親指の間をくっつくかくっつけないかを意識して座りなさい。」
と、指導されたことがありました。
で、これをやってみると相当に難しいのがわかります。なんせ指が攣りそうになるので仕切り直しに合掌して警策をいただく、そんなこともしばしばでした。
その繰り返しをしていたら、右手と左手。そしてその中間の親指の関係性が、それこそパスカルやニーチェが述べていた、揺らいでしまう「不安」の姿であるように思えました。
だから親指と親指のくっつきそうでくっつかない状況を作ることが難しい。それゆえ人の心は波のように喜怒哀楽に揺れている姿にひとしいのです。
あれ、この姿は人の心そのものではないのか?
と気づいたとき、それが俯瞰できるわけだ。これが道元のいう「只管打坐」で、悟りは外に求めるのではなく、己の中にあるではないか。しかも、このことは「仏の視座にたって俯瞰しているのだ」というメッセージです。
ですから道元が宋での修行中、居眠りしていた修行僧が、厳しく師にとがめられたのを観て大悟したというエピソードを思いました。
なるほど、「禅定印」は「空」を実感するための形なのかもしれない。
両手は正と負、死と生、有と無といった両極であり、その中間点の接点であり接点でもない「空」がその親指のあいだにあるとしたら・・。
この空間は、ホントに揺れ動いて、全く定まりない。まさに修行だと思います。
本来見つめるはずの機会をその僧は居眠りで、真実を俯瞰する機会を逃した。そういうことになるのでしょう。それが理由かどうかはわかりませんが、あたしがもし道元の立場なら「そうか~」って思っちゃいますね。
大日如来が胎蔵界の「法界定印」を示してるとすれば、おのがその「印相」を観じることは、「見性成仏」という禅の考えや、仏教の目標である「寂静涅槃」というものがすっと入るような気がします。
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さらに大日如来は、曼荼羅の金剛界で「究極の印相」を示しているのですが、これは別の機会というところで。