LifeStory Ⅰ 17歳の母
「妊娠してますね」
お医者さんは淡々と言った。
この時から私の人生は大きく変わった。
<子ども時代>
名古屋生まれ、名古屋育ち。
3人兄弟の末っ子で、よくある真面目で厳しい両親に育てられたけど、末っ子ということもあり、上の兄弟よりは比較的自由に育てられたと思う。
学校はほとんど休むことなく、友達と笑い転げる毎日。
小学校と中学校は、勉強はそこそこで、部活三昧。
ソフトボール、水泳、陸上、バスケ、サッカー。
運動神経がよかったから、結構なんでもできた。
高校受験ではそれなりに勉強を頑張って、第一志望に受かり、それはそれは楽しい高校生活。
憧れの電車通学。
また友達と笑い転げる毎日。
サッカー部のマネージャーをやり、器械体操部も兼部。
周りの子と同じように彼氏がいて、
部活がない日は、友達とカラオケに行ったり、買い物に行ったり。
いたって普通の女子高生。
なんのへんてつもない16歳だった。
正直、こんな話はどうでも良いと思うけど、この先に起こった出来事だけを伝えると、
「ヤンキーだったんですか?」
みたいなことをよく聞かれるから、
『いたって普通の女子高校生』
だったことを強調したくて書いてみた。
そして、性教育の遅れている日本では、
いつ誰に起こってもおかしくない出来事。
”少数”なだけで、”特殊”ではないことも強調したかった。
<高校2年生の春>
高校2年生の6月。
修学旅行の準備を始めた。
来るはずの生理が来てなくて、荷物の中に、生理用ナプキンを入れるスペースを確保してた。
修学旅行の数日前、2歳年上の彼とドラックストアで検査薬を買った。
じっくり説明書を読んだけど、そんな必要がないくらい、一瞬で、赤い線が現れた。
その時、彼とどんな話をしたのか、よく覚えてない。
でも帰って、すぐに母に話した。
翌日、母と彼氏と3人で産婦人科に行った。
初めての産婦人科。
あの両足を広げて乗る診察台は、16歳には衝撃的だった。
思春期の私には、女医さんだったことが、唯一の救いだったような。
当時、検査薬の信憑性は高くなかったので、確かなことを知りたい気持ちだけだったと思う。
検査はあっという間に終わり、お医者さんは淡々と
「妊娠してますね」
と言って、私を診察台からおろした。
診察室へ呼ばれ、子宮の中にいる胎児の写真が渡された。
もう頭部や胸部、手足がはっきりと分かり、赤ちゃんの形をしていた。
自分のした行為と、妊娠がリアルに結びついた瞬間だった。
教科書に羅列された文字だけでは、いかに学べていないか。
社会は若年出産を問題視するだけで、あれから20年たった今も、
学習指導要領では、「受精に至る過程は取り扱わないものとする」となっている。
性に興味をもつ世代の子たちが、どのくらい正しい知識を身につけられるか、どのくらい危機感をもてるのかは、それぞれの環境や、もはや個人の運に任されていると思う。
そして、先生は第一声、私にこう言った。
「産みますか?」
言葉が出なかった。何かのドラマの影響だったのか、産婦人科で妊娠が分かった時は、「おめでとうございます」が定型文だと思ってたから、私には意外な言葉で驚いた。
何を話したのかは覚えていない。
でも話されたことは覚えてる。
「若年出産」という言葉。
母体がまだ成長期の時期に出産をする「母体のリスク」
そして、その未熟な母体で育てられる「胎児のリスク」
最後に言われたのは
「◯月◯日までなら、中絶手術ができます。それまでに決めてください。」
何にも理解できなかった。
それは用語が難しいとかそういうことではなく、
私の手元にある写真には、すでに人の形をした「命」が写っているのに、
それに対して
「その命、なかったことにします。」
という流れについていけなかった。
多分、私は、最初から産むことしか考えてなかった。
迷う、なんていう瞬間は一度もなかった。
将来の夢がなかったわけじゃない。
でもそんなものとは引き換えにならないくらい、大切なものがすでに自分の体の中にあると感じてた。
中絶という方法を反対していたわけじゃない。
それが必要な人もいると思う。
でも私にはどうしても自分事にはならなかった。
帰りの車の中で、母に言った。
「私、産むから」
<誰一人、賛成してくれない選択>
その時の母の反応は覚えていない。
その日の夜、父に思い切りぶたれたことだけは覚えてる。
当然のことながら、両親は大反対。
許す気配など微塵もなかった。
高2で母になることを許す親なんていない。
全力で反対された。
でも私は、全く動じなかった。
今考えたら、あの自信と冷静さがどこから来ていたか謎だけど、
自分の体だから、自分の自由にできると思ってただけかもしれない。
数日後、私は修学旅行に行った。
これが高校生最後の思い出になるような気がしていて、純粋に楽しんだと思う。
ただ帰ってきてからは、大変だった。
私が両親を説得するというより、両親が私を説得する日々。
母は、私に家事の全てを任せるようになった。
おそらく自立して生きることの大変さを実感して欲しかったんだと思う。
父も、あの手この手で説得してきた。
優しく諭したり、きつく怒ったり。
母も父も本当に必死だったと思う。
誰一人、賛成してくれない自分の選択。
私のことを想ってくれる人ほど強く反対した。
1ヶ月もない時間が、とてつもなく長い時間に感じた。
幸い、彼氏と彼氏の両親は、私の産みたいという気持ちを尊重してくれていたのが唯一の救いだった。
中絶期限が迫っていた頃。
絶対に折れない私に、とうとう両親が折れた。
ただし、出産するための条件が出された。
それは、
「高校だけは卒業すること」
当時通っていた高校は伝統ある進学校。
妊婦の学生なんて許可してくれるわけがない。
編入を余儀なくされた。
母が、当時はまだ珍しかった単位制の高校を見つけてきた。
オフィスビルの中にある校舎。
いろんな年齢の人がいた。
制服や校則はなく、茶髪に金髪に、ピンク色。
黒髪の人の方が少なかった。
学習内容は、中学校と同じ。
テストは赤点を取ったら再試。
でも全く同じテストだから、何度も受けてればみんな受かる。
とにかく居心地が悪かった。
その場だけの友達はできたけど、基本は一人だった。
両親の願いだったから、嫌々でも通って、無事卒業した。
でもそれがなければ、教員になることも難しかったから、無理矢理でも行かせてくれたことは、感謝してもしきれない。
高校2年の8月、入籍をして、彼氏は旦那さんとなり、旦那さんの家で同居を始めた。
つわりがひどくなってきた頃には、
17歳になっていた。
<突然の出産>
産むと決まれば、たくさんの人が支えてくれた。
両親をはじめ、産むことを反対していた人ほど、力になってくれた。
赤ちゃんは、正常にすくすくお腹の中で大きくなっていた。
でも、出産は突然訪れた。
妊娠8ヶ月のある日。
朝からお腹が痛い。
痛みが1日中続き、夜遅くに出血。
病院へ搬送された時には手遅れで、もう出産するしかなかった。
通っていたのは、小さな産婦人科。
産まれてくる子どもは間違いなく正常ではないと判断した先生は、近くの総合病院から救急車を呼んでくれていた。
出産する
ということが突然現実になり、怖くて足が震えた。
足を両手で押さえても、震えが止まらなかった。
すごく怖かった。
痛かった。
2000年12月13日 AM2:00 1765g
とっても小さな男の子が生まれた。
私の出産は、分娩室に入って、たった12分の出来事だった。
私には泣き声が聞こえなかったけど、お医者さんは「もう泣いてるよ」と教えてくれた。
赤ちゃんの顔を見せてくれたけど、意識が朦朧としていた私にはよく見えていないまま、保育器へ。
すぐに救急車に乗せられて、赤ちゃんだけは大きな病院に行った。
私が赤ちゃんの顔を初めて見たのは、翌日、旦那さんが撮ってきてくれたポラロイド写真。
8ヶ月の早産。未熟児。
でも目と鼻がちゃんとあって、手足は二本ずつ。
指は五本ずつ。
つまり五体満足。
現段階では、どこにも異常はないとのことだった。
ただ自分でミルクを飲むことはできないから、胃まで管を通すして、直接送り込む。
体重が2300グラムになるまでは入院するということが決まった。
私は産婦人科。
赤ちゃんは総合病院。
それぞれの時間を過ごした。
1週間後、私は退院をして、赤ちゃんのいる病院に向かった。
N I C Uという赤ちゃん専用の集中治療室。
そこにはたくさんの小さな赤ちゃんがいた。
通り道にいた赤ちゃんは、たったの400グラム。
たくさんの管が付いていて、動かない。
怖くて、目を逸らした。
我が子への不安が高まった。
我が子の保育器にたどり着くと、写真ではわからなかった、体の大きさを初めて知った。
とてもとても小さかった。
例えるなら、本一冊くらいの大きさ。
両手を広げて、ちょうど乗るくらい。
でもうっすら目をあけて、手足をじたばた動かし、どうみても
「生きている」
涙が込み上げた。
あの時の感動が、一生分の親孝行でも構わないと思うくらい、嬉しかった。
息子は、予定よりも早く大きくなり、1ヶ月ちょっとで退院。
文字通り、順調に成長した。
未熟児で生まれると、健常児よりも検診の回数がとても多い。
1ヶ月に1回の検診を小学生になるまで続けた。
目や耳の異常は、成長してこないと分からないことが多いから。
幸い、息子に異常が見つかることはなく、何の問題もなく、すくすくと元気に育った。
こうして、私は17歳で母となった。