【映画レビュー】『マリアンヌ』試論~「同盟⇄縁組」の行方~
バーのドアが開かれ、ナチスの将校と入れ替わりに、帽子を脱ぎながら入って来るブラッド・ピットを正面から背後へとキャメラは流れるように追い、マリオン・コティヤールを探して、ホールの2階に目を遣る主観ショットへとつなげる。このワンショットから始まる偽装夫婦としての二人のファーストコンタクトにおいて、この映画の二つの主題を認めることができる。
談笑する3人の男女が左右に離れて、舞台の幕が開けるように現れるマリオン・コティヤールの肌を露わにした背中。仮の妻となるであろう女性を見とめ、椅子にかけたハチドリの刺繍のあるショールから背中へと視線を動かすブラッド・ピットの主観ショット。その視線に気づいてゆっくりと振り返るマリオン・コティヤール。お互いを確かめ探り合うような表情から安堵した確信の笑みへと変わる瞬間を的確に捉えた二人の切り返しショットは、ひとまずはこの映画の主題と呼んでも間違いではなかろう「マリアンヌとは何者か?」という問い=表象とともに、原題名(ALLIED)である「同盟=縁組」という主題をも喚起させる。ここでいう「同盟=縁組」とは、この映画の時代背景となる第二次世界大戦中の国家だけでなく、個人の関係をも含むものである。この二つの主題は説話論的には「マリアンヌとは何者か?」という問い=表象がせり上がるにつれ、「同盟=縁組」に裂け目が生じるというトレードオフの関係を有している。
本稿は以上二つの主題を手がかりに、この極めて端正な傑作『マリアンヌ(ALLIED)』(ロバート・ゼメキス、2016)の分析を試みたい。
1.差異と反復~折り目正しき構造~
ロンドンに舞台を移したファーストショットがショーウィンドウの粉々になったガラスの残骸を踏みしめるハイヒールのローアングルショットから始まることはその後の展開を予兆させるものであろう。
この映画の構成を俯瞰的にながめてみると上映時間のちょうど中盤、Vセクションというイギリスの諜報部門に呼ばれ、ブラッド・ピットが地下に続く螺旋階段を降りて長い廊下を歩いていくシークエンスが文字通りの折り返し時点となっていることがわかる。
明るい陽射しの差す地上の部屋から日の当たらない地下に続く何重もの螺旋階段を降りていくブラッド・ピットをキャメラは正面から背後へと追い、底の見えない暗闇を俯瞰ショットで映しだす。地下に降りたブラッド・ピットは暗い影を帯びて現れ、キャメラは長い廊下を歩く後ろ姿をゆっくりとトラックバックしながら、奥行のあるロングショットでとらえてみせる。しかしながら、キャメラは地下室へと入るブラッド・ピットをその背後から追うばかりであり、建物の中に入る人物を正面から迎えて背後へと回りこむ、それまで何度もみられた流れるようなキャメラワークはそれ以降、影を潜めることになる。
この映画の前半の流麗なキャメラワークが饒舌、砂漠を照らす太陽といった華やかな明るさを表象しているのとは対照的に、後半の細かなカット割りは沈黙、厚い曇に覆われた空や降りしきる雨といったどんよりとした暗さを表象している。
その対照性の強度はまた、ディテールの差異と反復の積み重ねにより強化されている。偽装夫婦である二人の饒舌な車内と夫婦となった二人の無言の車内、機関銃を乱射するドイツ大使の暗殺と拳銃の閃光と銃声だけが響く宝石商の暗殺、空襲警報をやり過ごす華やかな幸福感に包まれた結婚パーティーと墜落する戦闘機に見舞われ疑念が渦巻く中でのホームパーティー、マリオン・コティヤールを抱きかかえて結婚パーティーのパブへ入るブラッド・ピットとパブのガラス戸を右ひじで突き破り、躊躇するマリオン・コティヤールの腕をとって促すブラッド・ピット等々。
とりわけ、「マリアンヌとは何者か?」という問い=表象にとって決定的なのは、ブラッド・ピットが窓から事務室を一望できる開放的な部屋で直属の上官から「マリアンヌ・ボセジュール」のロンドンへの入国許可を告げられるシーンと、石壁に囲まれた暗い地下室の中でイギリスの諜報部の上官から「マリアンヌ・ボセジュール」のドイツ諜報員疑惑を言い渡されるシーンであろう。この問い=表象への応答をめぐる差異と反復が、「同盟=縁組」というもう一つの主題を動揺させ、折り目正しい構造を有する『マリアンヌ(ALLIED)』を駆動させていくのだ。
2.「男と女と自動車」のアレンジメント
映画の冒頭でブラッド・ピットが兵士から諜報員へと偽装するのは、砂埃を巻き上げて走る自動車の中であるように、この映画においては、自動車が説話論的に重要な役割を担っている。「男と女と自動車とがあれば、映画ができる」(ジャン=リュック・ゴダール『光をめぐって 映画インタビュー集』)のだ。ここで、本論を展開するうえでの補助線として戦争機械(ドゥルーズ=ガタリ『千のプラトー』)という概念を導入してみよう。「戦争機械は一様に定義されない」(『千のプラトー』)ものの、さしあたり本稿で使用する「機械」とは「連結し、創造する過剰な力能の運動」とでも呼んでおこう。結論を先取りしていえば、「男と女と自動車」という欲望のアレンジメントがこの映画における戦争機械を作動させるのだ。
ドイツ大使を暗殺する当日、朝日に照らされる砂漠の中で語らいあった二人が自動車に乗り込み、エンジンをかけようとしたブラッド・ピットの右手に添えられるマリオン・コティヤールの右手のクローズアップと二人の切り返しショット。この自動車の中での一連のショットが「男と女と自動車」という欲望のアレンジメントを構成し、国家に従属する戦争機械としての諜報員同士の「同盟」を恋愛機械としての二人の「縁組」へとスライドさせ、欲望のフローを作り出すスタートアップショットとなっている。続くシーンにおいて、キャメラは互いの顔を両手で抱き、激しく求めあう二人をマルチアングルでとらえ、流れ出す欲望のフローに呼応するかのように車外に吹きすさぶ砂嵐も激しさを加速させ、轟音とともにわたしたちの視界から二人は限りなく閉ざされていく。
また、ドイツ大使を暗殺して疾走する「男と女と自動車」のアレンジメントが「We're alive, Max. We're both alive.(生きているわ、二人とも生きている)」と高揚したマリオン・コティヤールの髪をなびかせる風と共に、欲望のフローを駆け抜けさせ、恋愛機械が作動する逃走線の創造にとって決定的な切り返しショットへとつながっていく。
一方で、この映画において自動車は保護装置としても機能している。
マリオン・コティヤールが互いを紹介しあう自動車の中で「And I like them. I keep the emotions real. (私も彼らが好き、感情は偽らないの)」と高らかに言い放ち、子供を産む直前にブラッド・ピットの顔を両手で抱えながら「This is really me, as I am before God. (これが私、神に誓って偽りのない私)」と偽者であることを否認する行為は偽者であることを認めていることの証左であろう。常に/既に偽者であることを強いられるマリオン・コティヤールにとっては自動車の中こそ、アパートの屋上、街のカフェやバーで晒される匿名の視線から身を守る装置、端的に言えば、外界から偽装を保護する装置なのだ。
たとえば、ふり続く雨音だけが聞こえ、不安気に辺りを見渡しながら、明け放たれたドアのフレーム越しにブラッド・ピットが入った宝石商の扉を無言で見つめるマリオン・コティヤールの主観ショットや扉越しに鳴り響く銃声と閃光に驚愕する彼女の切り返しショットは保護装置としての自動車がその機能の一部を放棄していることを明示しているシーンであろう。
クライマックスの直前、ブラッド・ピットが何度も戦闘機のエンジンをかけようとしては挫折する音だけが鳴り響く中での、車内のマリオン・コティヤールの切り返しからの主観ショットとクローズアップのモンタージュ、軍用車とプロペラが歪な音を立てて接触するショットへの彼女のバストアップの挿入といった巧みな編集処理が視線のアクションを作り出し、車内を張り詰めたサスペンス空間へと変容させていく。それでもなお、赤ん坊を静かに抱きしめ座席にそっと寝かせる行為は保護装置としての自動車への彼女の変わらぬ信頼の証でもあろう。フードを深くかぶるマリオン・コティヤールは「マリアンヌとは何者か?」という問い=表象に立ち向かうべく、すべての覚悟を決めた表情を湛え、自動車の扉を開けて(保護装置を解除して)、外界へと自ら踏み出していく。
3.切り返しの倫理
ブラッド・ピットとマリオン・コティヤールが初めて出会うシーンの繊細な息づかいは既述のとおりであるが、ドイツ大使を暗殺し機関銃を乱射する中、マリオン・コティヤールが友人のドイツ高官夫人を認め、銃を真っ直ぐ構えたまま見つめる正面からの切り返しショットも「And I like them. I keep the emotions real. (私も彼らが好き、感情は偽らないの)」という言葉を裏書きしている印象的なシーンだ。
このように、この映画では様々な場面で切り返しショットが多用されている。「愛することは、本質的に、愛されることである」(ジャック・ラカン『セミネール ⅩⅠ』)という定義に従うならば、とりわけ、この映画におけるブラッド・ピットとマリオン・コティヤールの切り返しショットとは対峙して見つめあう二人が互いの愛を確かめるために表出させる、顔面の刹那的なアクションを捕捉しようとする倫理的な試みであろう。それは、トレードオフの関係にある二つの主題をこの映画が引き受けたことがもたらす倫理性とも密接な関連があるはずだ。
さらに順を追ってみていこう。
二人が初めて出会う切り返しショットに続く抱擁シーンは国家に従属する戦争機械としての諜報員同士の「同盟」の成立を示す身振りとなる。したがって、互いの本名を明かして紹介しあう、初めて同乗した車内での斜め後方からの切り返しにおいては、「マリアンヌとは何者か?」という問い=表象が立てられるスペースはいまだに生じていない。なぜなら、この問い=表象とは、国家が戦争機械をその内部に回収しようとする呼びかけにほかならないからだ。
この問い=表象が初めて侵入するのは、ドイツ大使を暗殺して逃走する自動車の中で求婚され(「縁組」を申し込まれ)、疾走する車窓を背景に髪を右頬になびかせながら、無言で見つめるマリオン・コティヤールの半開きの口元の切り返しショットにおいてである。そして同時に、この半開きのスペースが恋愛機械を作動させる逃走線に向かって開かれていることも確認できるだろう。
結婚パーティーでの周囲の饒舌な会話とは対照的に無言で口元に笑みを湛えながら互いの表情を確かめ合う二人の正面からの切り返しショットは、国家に従属する戦争機械としての諜報員同士の「同盟」が恋愛機械としての二人の「縁組」に等式で結ばれる「同盟=縁組」を架橋するとともに、「マリアンヌとは何者か?」という問い=表象を遠くへと押しやるショットでもあろう。
この問い=表象が前景化するのは、映画の折り返し時点以降であるが、「同盟=縁組」の動揺も、家の中を動き回るマリオン・コティヤールと寝室で動かないブラッド・ピットをスプリットスクリーンのようにドアのフレームで分割してワンショットにおさめたシーンに端的に示されている。それは待ち合わせたパブでの、饒舌で明るいマリオン・コティヤールとは対照的に右頬が影を帯び、眉間に皺を寄せて微かに首を振ることだけしかできないブラッド・ピットのズームアップの切り返しにおいて確かめることができる。
「同盟=縁組」の動揺によるズレは、ホームパーティーのダンスでの無言の切り返しの後、マリオン・コティヤールがさっと手を離して去っていく後ろ姿からブラッド・ピットのアップへと繋げるシーンにおいて二人の間の無意識に刻印されたことを認めることができる。さらに、「マリアンヌとは何者か?」という問い=表象が二人の間にせりあがってくる様子も、ブラッド・ピットが最後の調査に出発する夜に二人が交わすキスシーンの後、無言で見つめるマリオン・コティヤールの切り返しショットにおいて目撃できるであろう。
最後の調査から自宅に帰ってきたブラッド・ピットのダイニングテーブルの座席ポジションに注目してみよう。それまでの自宅での食事シーンにおいては玄関を背に家の奥に向かうポジションであったのが、この場面での階段から降りてゆっくりと近づくマリオン・コティヤールとの切り返しショットにおいては、疲れ切った表情で煙草を吸いながら反対側の椅子から見下ろすように対座しており、「同盟=縁組」における二人のポジションにも何らかの変化が生じていることがわかる。そして、その直前にマリオン・コティヤールが寝室のカーテンを開けて目を遣るベッドシーツの一人寝の跡を映す主観ショットも、物語前半の多幸感に包まれたベッドで寝そべる二人の切り返しショットとの対照性を形成し、このポジションの変化を暗示している。
「マリアンヌ・ボセジュール」であることの証のため、パブで「ラ・マルセイエーズ」のピアノ演奏を強要されたマリオン・コティヤールが逆光に立つブラッド・ピットの仰角のアングルショットとの切り返しにおいて、「マリアンヌとは何者か?」という問い=表象を封印するように両手で鍵盤の蓋をそっと閉める場面は、「同盟=縁組」を「同盟⇄縁組」へと更新させ、自分の生を生きるための逃走線を引く重要なシークエンスだ。偽装夫婦としての二人のファーストコンタクトにおいて、マリオン・コティヤールが飛び跳ねるようにブラッド・ピットに覆いかぶさる抱擁シーンが「同盟=縁組 」の身振りに過ぎないとすれば、このシークエンスに続く二人の切り返しの後、ブラッド・ピットが殴りかかるようにマリオン・コティヤールの顔を抱き寄せる抱擁シーンにおいては「同盟=縁組 」が互いの生身が賭けられた、自分の生を生きる個人の間の「同盟⇄縁組」へと命がけの飛躍を遂げていることがわかるだろう。この「同盟⇄縁組」を水平に展開してみると「同盟→縁組→同盟‘」、つまり、国家に従属する戦争機械としての諜報員同士の「同盟」が恋愛機械としての二人の「縁組」を経て、自分の生を生きる戦争機械=恋愛機械としての個人の間の「同盟‘」となる軌跡をなぞることができるはずだ。ここで「国家の理想とは、ひとつになること。しかし、個人の夢は、ふたりでいること。」(ジャン=リュック・ゴダール『新ドイツ零年』/『ゴダール・ソシアリスム』における引用)という言葉を想起するならば、「国家の理想とは、ひとつになること」が「同盟」、「個人の夢は、ふたりでいること」が「同盟‘」にそれぞれ正確に照応している。そして、「同盟→同盟‘」の差額にこそ、わたしたちの心を揺さぶる、この映画の剰余価値あるいはその可能性の中心が賭けられているといっても過言ではないだろう。
降りしきる雨の中、「国家装置の規律にしたがう軍事機関にしか過ぎなくなるか、それとも、自分自身に攻撃を向け、孤独な一対の男女の自殺機械になってしまうか、という二者択一」(『千のプラトー』)を迫られたマリオン・コティヤールとブラッド・ピットとの最後の切り返し。くるりと背をむけてフレームアウトし、「マリアンヌとは何者か?」という問い=表象そのものの足場が崩落するように、銃声とともに横倒しに崩れるマリオン・コティヤールをとらえたシーンは、国家に抗する逃走線を切り開く、この上もなくせつないロングショットとして決して忘れることができないであろう。
4.「同盟⇄縁組」の行方
それでは、「同盟⇄縁組」はどうなったのであろうか。写真が出来事を記録する媒体だとすると、この映画においても「同盟⇄縁組」の行方を記録する重要な役割を担っている。あるいは写真を辿ることによって「同盟⇄縁組」の行方を確認することができるともいえよう。
不意をつくように、幸せな笑みに満ちた腕組みをした二人のモノクロのスナップショットがカメラのシャッター音とともに連続して流れ、続くカラー画面に戻ったところで、それが結婚式の記念撮影であり、名実ともに「同盟=縁組 」が成立したことをすぐさま理解できる。
ブラッド・ピットが「マリアンヌとは何者か?」という問い=表象に答えるための調査を「同盟=縁組」の証である二人の腕組み写真を二つ折りにするシーンから始めたこと、マリオン・コティヤールの写真だけを無造作に引きちぎり、手配写真のように変容させたことは、自足的な関係にあった「同盟=縁組」に折り目=裂け目が生じ、破ること=分裂へと事態が向かっていることを鮮明にしている。
また、この華やかなマリオン・コティヤールの写真が「戦争機械が国家に所有されればされるほど、戦争は惨たらしいものになる。そして特に国家装置は、不具や死さえも、あらかじめ存在させる」(『千のプラトー』)こと、すなわち、戦争の陰惨さをわたしたちに照射してくれるのだ。ブラッド・ピットがこの写真を向ける相手は、初めての戦線で撃墜される若い兵士、あるいは片目を撃ち抜かれた盲目の元兵士、アルコールに溺れ牢獄に監禁された隻腕の兵士たちであるからだ。
事態の全てを引き受ける覚悟を決めて書かれたマリオン・コティヤールの手紙が本人のナレーションによって語られる中、画面いっぱいに広がる、メディシン・ハットと思われる牧場の草原で肩を寄せて歩くブラッド・ピットと成長した娘のロングショットから部屋の中に立て掛けられた写真のアップショットへとキャメラは移動していく。そこに写されたラストショットは、「同盟=縁組」が破ること=分裂を止揚して「同盟⇄縁組」として再帰したことを告げる、破られたはずの二人の腕組み写真であり、その写真に重ねるように、マリオン・コティヤールによる「マリアンヌ・ヴァダン」という声=署名が「マリアンヌとは何者か」との問い=表象への応答としてなされている。「マリアンヌ・ボセジュール」が横領可能な名前であったとすれば、「マリアンヌ・ヴァダン」とは、国家が戦争機械をその内部に回収しようとする呼びかけを無効にする、入れ替え不可能な固有名にほかならない。
そして、ここにおいて、それまで積み重ねられてきた差異と反復が反転していることもわかるだろう。一面に広がる小高い緑の丘へと続く大草原の中で娘と肩を組んで前へと歩いていくブラッド・ピットの後ろ姿を奥行のあるトラックバックでとらえたロングショットは「ふたりでいること」という個人の夢を未来へと受け渡しつつ、オープニングのロングショットがとらえた画面を横切って砂漠を歩くブラッド・ピットの孤高性をも召喚し、わたしたちがそれまで共有していたはずの地下室へと降りていくシークエンス(この映画の折り返し地点)以前/以後のプロットのイメージを反転させているのだ。
このラストショットにおいて、わたしたちは、決して両立できないはずの二つの主題が見事に交差する奇跡のような瞬間に立ち会うことができるとともに、映画『マリアンヌ(ALLIED)』とは国家の政治的目標である戦争に従属させられる戦争機械であった二人が「戦争ではなく、創造的な逃走線を引く」(『千のプラトー』)、国家に抗する戦争機械=恋愛機械に生成し、自分の生を生きる過酷な逃走=闘争の記録でもあったことも理解できるはずだ。
この映画と共に生きることができた悦びにそっと涙をぬぐい、流れるエンドロールとともに本稿の筆をおくこともしたい。
2019年3月27日
クレジット
原題名:ALLIED
監督:ロバート・ゼメキス
脚本:スティーヴン・ナイト
編集:ミック・オーズリー、ジェレマイア・オドリスコル
出演:ブラッド・ピット、マリオン・コティヤール、ジャレッド・ハリス、サイモン・マクバーニー、リジー・キャプラン
プロデューサー:グレアム・キング、スティーヴ・スターキー、ロバート・ゼメキス
エグゼクティブプロデューサー:パトリック・マコーミック、スティーヴン・ナイト、デニス・オサリヴァン、ジャック・ラプケ、ジャクリーン・レヴィン
撮影:ドン・バージェス
衣装: ジョアンナ・ジョンストン
音楽:アラン・シルヴェストリ
製作会社:GKフィルムズ、フアフア・メディア、イメージムーバーズ
配給:パラマウント映画、東和ピクチャーズ
(2016 / アメリカ / 124分)