世界的な禅者、鈴木大拙さんが「科学や哲学で知性を拘束され、機械と経済で独創の本能を奪い取られた人間は、畢竟どうなるかというと、その時々の当面の感覚的刺激のみを追求することになる。」と著書で語られていた。
この言葉は、まだコンピュータやインターネットがない1960年代に書かれたもの。もちろん、66年に亡くなられた彼がスマートフォンやインターネットの世界を知る由もないし、想像も出来なかったと思う。
けど、この時から50年以上経ち、今こそ、この言葉をしみじみと噛み締める。
ディスプレイやスマホの画面を覗いている時、人の頭は情報処理モードになっていると言われている。情報に対して反応しているだけ。思考や発想、問題発見はできにくいと言われている。
流れてくるSNSに「イイね」を押したり、来たメールに返信をしたり、ネットのニュースをスクロールして時間というものを消費している。
昨今のインターネットは、個人向けにカスタマイズされた情報を浴びせる装置なので、思考や発想はおろか情報処理能力すらも画一化されていっていると思う。
そして、最も恐ろしいことは、そういったふうに無個性化されてしまっていることに、多くの人は気が付いていないことかもしれない。
どんどんどんどん、毎日毎日、私たち人間が持っている「考える力」「問題を発見する力」は衰える仕組みになっているかもしれない。
子供が学校で描いた絵を時々見る。家で落書き帳みたいなものに絵を描くこともある。彼らの独創性や観察力に驚くことも少なく無い。会話をしていても、彼らの好奇心やワクワクしている感覚を感じることが多い。
彼らは日常の中でディスプレイという閉ざされた世界を見る時間が少ない。ましてや、「イイね!」って反応しなくても良い。
五感や身体を目一杯使って毎日を過ごしている。
今、私たちに必要なのは、余白かもしれない。スマホやPCをそっと置いて、生活の中に真っ白いキャンバスを用意することかもしれない。
少し早い梅雨の雨を窓の外に聞きながら、そんなことを思った。