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良きパートナーとなった馬と人間の歴史
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17世紀のラ・フォンテーヌの寓話集に「鹿に復讐しようとした馬」という話があります。
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ある時、これまで馬が自由に独占してきた放牧地に、鹿が入りこんで草を食い荒すようになりました。馬は鹿をつかまえて懲らしめようとしましたが、足の速い鹿を馬は捕まえることができず、猟師に助けを求めました。すると、猟師は「馬に馬銜(ハミ)をつけ、自分が槍を持って馬の背中に乗る」という条件ならば、鹿狩りに協力しようといいました。馬は、鹿をすぐに捕まえられるのならと、これに同意しましたが、鹿を捕えた後も猟師は馬を解放しようとせず、使役し続けたのです。馬は、復讐を果たしたかわりに自分の自由を失い、人間に支配され続けることとなったのです。
この寓話から学ぶべきは、他者との対立に固執し、復讐という目先の利益だけに囚われると、長期的に見れば、自分自身が不利な立場に陥り、より大きな損失を被ることがあるということです。
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しかしなぜ、馬は抵抗を試みなかったのでしょうか。馬銜(ハミ)とは、馬の口に噛ませる棒状の金具です。最も古くハミを使用したとされるのは、今からおよそ6000年も前のことになります。考古学の観点でいえば、紀元前3000年頃のカザフスタンの遺跡では、馬の頭骨の歯にハミを使用したと思われる摩滅が確認されています。この頃は、動物の角や骨、縄、硬い木などの棒状のものを素材としてハミが作られていたと考えられますが、紀元前1200年頃に、青銅の製造技術が発達すると、エジプトで青銅製のハミが使用されるようになりました。ハミに加え、革紐や金具で馬の頭全体を覆う頭絡(とうらく)は、馬の頭部を効果的に固定することで左右への進路変更と停止を可能にするハンドルとブレーキの役割を持ちます。轡(クツワ)は、手綱に繋がっており、この手綱を引っ張ることにより、口と頭という非常に敏感なところに刺激が加わるため、馬を容易に操ることができるのです。両眼で右を見ながら、それに逆らい左へ向かって走るのは難しいでしょう。
ハミを差し込む場所は、馬の口の前に生えている切歯(前歯)と後ろの臼歯(奥歯)の間にある歯槽関縁(しそうかんえん)と呼ばれるすき間です。馬がいうことを聞かないと手綱が引っ張られ、強い力がハミを通して口角や舌、歯槽(しそう)(歯を支える顎の骨)に加えられ、口の中の金属棒が、ガツンガツンと歯にぶつかるため、その指示に従わざるを得ないのです。執拗に強く手綱が引っ張られると、ハミを含むクツワ全体で馬は頭をのけぞらせ、急な方向転換にさえ従わなくてはならないのです。
こうして野山を自由に駆け巡っていた野生の馬は、次第に人間の支配下に置かれ、ハミ、クツワ、手綱、鞍、鐙(アブミ)、拍車といった馬具も進化し、狡知な知恵をもつ人間の調教によって、馬は人間の良き下僕(げぼく)となったのです。
馬が戦闘に使われた歴史を見ると、古代史において際立つのは、スキタイと匈奴です。この2つの民族の歴史は、スキタイがヘロドトスの『歴史』に、匈奴が司馬遷の『史記』に詳しく記されています。
ユーラシア大陸の騎馬民族として最初に登場するスキタイは前6~前3世紀に南ロシアの草原地帯を中心に活動した騎馬遊牧民です。スキタイの騎馬遊牧文化は後世に大きな影響を与えました。君主は統率された1万以上の軍団を率いて農耕文明に侵入し、資源の略奪や征服を度々行いました。騎馬遊牧民の攻撃力は凄まじく農耕文化は歯が立ちませんでした。
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スキタイ文化と言われる高度な金属文化をもっており、西アジアのヒッタイトなどから鉄器の製造をまなび、それを東方に伝え、他の遊牧騎馬民族に大きな影響を与えました。スキタイ人の残した金属製の装飾品は、ロシアのサンクト=ペテルブルクにあるエルミタージュ美術館にその多くが収蔵されています。
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中央ユーラシアの大草原で、家畜を連れて移動をくりかえしていた平和な遊牧民は、スキタイから騎馬の技術を伝えられると、騎馬遊牧民へと成長していきました。その中で特に東方で活躍した匈奴(きょうど)は、強大な遊牧国家を建設して、大帝国・漢の強敵となりました。彼らは戦闘の際には馬に乗って弓で相手を攻撃するなど非常に機動性の高い軍事力を誇っていました。
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漢の初代皇帝・高祖は、匈奴と戦い敗北するなど、前漢にとって、匈奴は強力なライバルだったのです。紀元前139年、武帝は張騫 (ちょうけん)という人物を大月氏に派遣します。大月氏と同盟を結び、遊牧民族の匈奴を挟み撃ちしようとしたのです。同盟は成立しませんでしたが、張騫の情報をもとに、武帝は「汗血馬」を獲得し、シルクロードを開発しました。
古代中国で名馬と称された「汗血馬」は、血のような汗を流すといわれ、とても足が速く、1日に1000里を走ったといわれ、その機動力は凄まじいものがありました。そして紀元前129年、武帝はついに匈奴の討伐に成功したのです。
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その後の長い歴史の中で、騎馬軍団は大いに活躍し、攻撃のスピードを誇ったナポレオンの軍隊をはじめ、第二次世界大戦まで、騎馬隊は移動と攻撃の手段としてつかわれ続けたのです。