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「才」よりも「器」こそ名将の条件~司馬遷が残した歴史観


▲司馬遷

  司馬遷の『史記』は、歴史的事実や人物の伝記を通じて、後世の人々に多くの示唆を与えています。『史記』には、個人の行動や判断、政治、社会における価値観に関する重要な示唆があり、特に人間性に深く触れるものが多く、逆境における忍耐や、適時・適切な判断、賢明なリーダーシップの重要性など、現代にも通じる普遍的な教訓が多く示されています。
  まずは、司馬遷の『史記』がどのような時代状況の中で生まれたかを見てみましょう。
  「項羽と劉邦」など有名な列伝を含む司馬遷の『史記』は、高い物語性と文学性を持つ古代中国の壮大な歴史書です。
  『漢書』の「李廣蘇建傳(りこうそけんでん)」に、紀元前99年、前漢の武帝が、匈奴を従わせようとしましたが、匈奴が高慢な態度をとったため派兵を決断したと書かれています。
  この時、李陵という武将が単独での作戦を願い出ました。武帝の意に反していましたが、結局彼とその配下5000の歩兵による出陣を許可しました。李陵は敵地深くに入って情報収集などに成果を挙げましたが、3万を超える敵軍と遭遇し包囲されてしまい、激しい戦いを繰りひろげながら退却を続けざるを得ませんでした。
  匈奴に打撃を与えた李陵でしたが、弓矢も尽き、部下の裏切りもあって、ついには投降の道を選びました。武帝の方針に反して申し出た戦いに敗れたため、本来なら自刃すべきところを、李陵が敵に投降したという報に触れ、武帝は激怒し、処罰すべきか家臣たちに意見を求めました。敵に捕らえられれば拷問にあい、国の秘密を漏らしたり、スパイになってしまうことも予想されます。家臣たちが皆、李陵を非難する中、司馬遷はただ一人彼を弁護しました。
  司馬遷は、李陵の人格や国家への献身を誉め称え、たった一度の敗北を責め立てることを非難しました。わずか5000に満たない兵力だけで、匈奴の地で窮地に陥りながらも死力をふりしぼり敵に打撃を与えた彼には、過去の名将といえども及ばないと評しました。自害の選択をしなかったことは、生きて帰り、ふたたび漢のために戦うためであると擁護したのです。
  しかし、忠言は逆効果となりました。武帝の意に反して単独行動をとった李陵を擁護しただけでなく、司馬遷の言う「過去の名将」というくだりを、武帝は対匈奴戦で功績が少なく、李陵を救援しなかった李広利(りこうり)を非難しているものと受け止めてしまったのです。李広利は、武帝の寵妃・李夫人の兄だったのです。武帝の命によって、司馬遷は即座に獄に繋がれました。

  しかし、翌紀元前98年になると、武帝も考えを改め、逃げ延びた部下に恩賞を与え、李陵を救う手を打ちましたが成功しませんでした。そんな折、ある匈奴の捕虜が、李陵は匈奴の兵に軍事訓練を施しているとの誤った情報を告げたため、事態は一変しました。武帝は激怒し、李陵の一族は全て処刑されたばかりか、司馬遷にも死刑が宣告されます。当時死刑を逃れる道は二つだけです。大金を積むか、それとも宮刑(きゅうけい)を受けて宦官(かんがん)になるかです。富裕でなく、誰からも金銭的援助を得られなかった司馬遷は後者を選ぶしかありませんでした。すなわち、宮刑とは重刑の一種で、男性の性器を切り取られるのです。宮刑に処された者はもはや人間として扱われない存在だと悟り、絶望に苛まれながらも、司馬遷は決して自害することはありませんでした。
  というのも、父の遺言でもあった『史記』の完成という使命を果たすべく、彼は耐えて生きる道を選んだのです。
  牢獄に繋がれてから4年後の紀元前96年6月、司馬遷は大赦によって釈放され、「中書令」という重要な役職に就きますが、宦官が担う役職であるこの任は司馬遷にとっては屈辱でした。後に司馬遷は、決して死を恐れたわけではなく、『史記』を完成させるためだけに生きながらえたと述べています。

  世の中は、利害損得で権力者に迎合する者ばかりで、自分の信念を貫き通せる人物は稀です。しかも、自分の使命を自覚し、その達成のために恥を忍んで生きながらえるといった忍耐強さを兼ね備えた人物など、極めて稀な存在です。紀伝体という歴史書のスタイルを確立した『史記』は、中国史学の金字塔であるばかりではなく、単なる詳細な権力者や王朝の記録という域を超えて、「歴史とは人間が作るものである」という人物中心の歴史観に貫かれた一大叙事詩であり、美しい文体と対話や逸話をふんだんに盛り込んだ文学作品として、東洋文学の基礎を築いたといっても過言ではありません。そこに描かれた透徹した人間観は時代を超えた普遍性を持っています。
  そして、三国時代の『三国志』や明代の『三国志演義』などの文学作品、さらに現代に至る『項羽と劉邦』をテーマとした小説、映画や演劇、ドラマ、漫画、ゲームなどにも多大な影響を及ぼしています。


▲項羽と劉邦(世界史教養書の表紙より)

 その『史記』の中から、「項羽と劉邦」の概略を見ていきましょう。
  紀元前210年、六国を滅ぼした始皇帝も49歳で死去します。丞相(じょうしょう)の李斯(りし)は、宦官の趙高(ちょうこう)という人物にそそのかされて、始皇帝の遺書を偽造し、長男で本来後継者だった優秀な扶蘇(ふそ)を殺害し、暗愚だった胡亥(こがい)(始皇帝の末子))を次の皇帝に指名します。やがて趙高は二世皇帝を操る影の実力者となり、優れた政治家だった李斯は趙高の陰謀によって処刑されます。ここから秦帝国の崩壊は加速し始めました。
  厳格な法で管理されていた秦では、あまりの重税で農民反乱が各地で頻発し始めます。滅ぼされた旧六国の遺臣たちも各地で反乱軍を組織しますが、その中で2人の英雄が頭角を現します。項羽と劉邦です。彼らは、秦を滅ぼしたのち、新たな中華帝国の覇権を賭けて激突しますが、なぜ戦いには弱者だった劉邦が、勇猛な項羽を倒せたのでしょうか?リーダーの在り方について、司馬遷は多くの教訓を与えてくれています。

   項羽は、秦に滅ぼされた楚の国の将軍の家柄で、戦争にはめっぽう強い武将でした。もう一人の劉邦は、地方の小役人を勤めたこともある人物ですが、農村で侠客(正義や義理を重んじ、弱者を助ける存在)のような半生を送っていた庶民の世話役の一人でした。豪放磊落な性格と人々を引き付けるカリスマ性を持っていました。紀元前209年の陳勝・呉広の乱に触発され、沛県(はいけん)の仲間を集め挙兵しました。軍勢は次第に拡大し、2年後には、項羽の軍と連携しつつ、秦の都を目指しました。
 項羽と劉邦の戦いぶりを見ると、戦闘では圧倒的に項羽が優勢だったのですが、劉邦は名門でもなく武勇に抜きん出た人物でもなかったこともあり、自らの弱点を十分自覚していました。知恵のある部下の助言や提案に素直に従い、秦への進軍では、強敵をひたすら避けて蛇行しながら進軍しました。褒美や名声は、活躍をした部下に気前よく分け与え、限界まで戦うような消耗戦は行わず、必要であれば何度でも逃げるといった戦いぶりでした。劉邦は、後に項羽軍の進撃で負け続けた劉邦軍を前に「連戦連敗・・・ 九十九敗して、最後の一勝、決定的な一勝を得ればよい」と繰り返し説いたといいます。
 項羽軍の范増(はんぞう)という老軍師は、自軍が優勢の今こそライバルの劉邦を殺すべきであると進言しますが、項羽は劉邦の巧みな弁舌や謙虚な態度に騙され、その危険性を過小評価し、チャンスを逃してしまいます。
   秦の都を攻略するにあたっては、項羽が秦を目指して直進し、すべての敵を倒して進軍したのに対し、劉邦は手ごわい敵をすべて避け、途中で戦をしなかった劉邦のほうが何と先に都・咸陽に到着したのです。しかし彼は秦の都の財宝等に手をつけず、秩序を守って人々を安心させ、無血入城ともいえる穏やかさで、都を占領しました。自ずと人々は劉邦軍を信頼したのです。
 一方、項羽は咸陽を徹底的に破壊しました。打倒・秦国を夢み続けた彼にとって、秦の都を廃墟にしてしまわないかぎり、祖国の楚を滅ぼされた恨みは晴らせなかったのです。 項羽が都に放った火は、3カ月の間、燃え続けたといいます。

 このころ「沛公(劉邦)は秦の王になろうとしている」と項羽に告げ口をした者がおり、それを聞いた項羽は「劉邦が首都を占領できたのは、自分が秦の主力軍と戦っていたからだ!」と自分の功績を自負していたため激しく怒り、劉邦を討とうとしました。

    この時劉邦はまだ項羽に勝つ見込みがなかったので、項羽の誤解を解くために百騎余りを従えてはせ参じ、項羽に会うと平身低頭してこう言いました。「項羽将軍と私はこれまで力を合わせて秦打倒のために戦ってきました。今回思いもよらないことに、私の方が先に関中に入り秦を倒すこととあいなりました。今つまらない者が根も葉もない告げ口をし、将軍と私を裂こうとしていると聞き、ただちに御許しを請いに参ったところであります。」これが両雄の命運を分けた有名な「鴻門の会」の始まりです。

   項羽はこの言い訳を聞くとそのまま劉邦を帰すことなく、共に酒を酌み交わすことにしました。宴の最中に項羽の老参謀・范増は、項羽に何度も目配せし、劉邦を暗殺するようジェスチャーしますが、項羽は黙ったままでそれに応じませんでした。そこで范増は項荘に剣舞を舞わせ、その場で襲わせようとします。項荘は剣を抜き立ち上がって舞いました。しかし、沛公暗殺の意図に気づいた項伯もまた沛公を守ろうとして剣を抜いて立ち上がって舞い、常に身をもって、沛公をかばって助けたため、項荘は沛公を殺すことができないまま、沛公は密かに宴会場を抜け出し、難を逃れたのです。
   
   鴻門の会の後、項羽は覇王として諸侯の上に立ち、劉邦を田舎の蜀へと追いやりました。劉邦は田舎でもめげず、部下と一緒に頑張って富国強兵に努めると、時間と共に項羽を圧倒する勢力となりました。そして項羽の土地分配があまりに不公平であったため、各地で反乱が起こり、それに乗じて劉邦も反乱を起こします。
 項羽と劉邦が激しく戦うも、徐々に劉邦が優勢となり、項羽は垓下(がいか)(現在の安徽省北部)に追い詰められたのです。
 項羽は老軍師・范増がいたあいだは劉邦に勝ち続けましたが、范増の忠告がたびたび無視されるうちに、敵の離間策で范増はついに項羽軍を去ったのです。
  時は戦いの終盤戦、項羽の軍は垓下(がいか)に防壁をつくりましたが、兵は少なく食糧はほとんど尽きはてていたため、劉邦と和議を成立させ、それぞれ軍を引くこととしました。しかし、劉邦が一方的に約束を破り、背後から楚軍を攻撃したため、項羽軍は垓下の城壁の中に立てこもりました。劉邦軍とそれに味方する諸侯の兵は、城壁を幾重にも包囲しました。夜になって、漢の軍勢から項羽の故郷である楚の歌が聞こえてきて、項羽は大変驚き嘆きました。「漢は楚の地まで手中におさめたのか。敵軍に楚の人間がなんと多いことか」と。四方から項羽の故郷・楚の歌が聞こえてきます。それを耳にした項羽は、本来自分に味方してくれるはずの楚人がこれほど劉邦側についているとは…と自分の敗北を悟りました。四方から楚の歌が聞こえたことから、「四面楚歌」の故事が生まれたのです。夜が明けると、項羽はわずかな兵を率いて厳重な包囲網を何とか脱して、故郷の江南を目指しましたが、長江(揚子江)北岸の烏江(うこう)で漢軍に追いつかれました。長江の渡し場までたどり着くと、敵の中に旧知の者を見つけた項羽は、「お前にこの首をくれてやろう」と自ら首を掻き切って最期を遂げたのです。享年31歳でした。
 これらの戦いは、劉邦の 「将の器」と項羽の「武勇の達人」とでは全く異なる素質であるということの証です。 戦いの能力という点から比較してみると司馬遷の 『史記』 を見る限り、 戦闘に勝利していたのは、常に項羽軍でした。しかし、不思議にも最後に勝ったのは、それまで負けっ放しだった劉邦軍です。なぜ強かった項羽でなく、劉邦が天下を取ったのでしょうか。
項羽は楚の有名な武将の一族で、けたはずれの才能に恵まれていました。その才能と自負が、部下に対する全幅の信頼を妨げるようになり、部下のたてた功績も僅かなものにしか見えなかったのです。手柄はすべて項羽自身のものであり、部下の功が賞せられることは少なくなっていました。 部下に対する深き愛はありながら、人情のこまやかな機微を表しえず、ほめることも少なく、温かさよりも厳しさが表に出ていったのです。項羽の論功行賞には不満が渦巻き、しかも、うかつに反対を表明できない厳格さから、項羽の顔色をうかがう部下たちの様子が悪しき雰囲気を醸し出していきました。彼の論功行賞は、最前線でめざましい戦果をあげた者たちに偏った一面的なものとなり、陰で苦労し、目立たなくとも的確なる作戦を立て、実行した者を称賛する細心の配慮に欠けていたのです。自ずと独断専行が多く、周囲からの人望のなさから優秀な人材が次々と離れていったと言われています。自分の野望を実現するために他人を切り捨ててきた項羽は、皮肉にも、故郷の楚の人々に討ち取られることとなるのです。それが分かった時にはもう遅かったのです。 項羽は、その偏った自尊心やプライドのために、自分と正面から向き合うことや事態を正しく認識することができませんでした。
一方劉邦は、項羽を倒した勝因について、次のように述べたといいます。「謀(はかりごと)をめぐらし、千里の外に勝利を決するという点では、わしは部下の張良にかなわない。内政の充実、民生の安定、軍糧の調達、補給路の確保ということでは、わしは部下の蕭何にはかなわない。100万もの大軍を自在に指揮して、 勝利をおさめるという点では、わしは部下の韓信にはかなわない。この3人はいずれも傑物といっていい。わしは、その傑物を使いこなすことができた。これこそわしが天下を取った理由だ」と。
劉邦の下には知謀無比の張良、 政務に長けた有能の士・蕭何(しょうか)、戦略の天才・韓信らだけでなく、盗賊あがりの彭越(ほうえつ)までもが力を発揮するといった人材群に恵まれたのです。項羽は、劉邦が、謙虚に自分の部下の意見に耳を傾け、彼らに大きな権限を委ね、部下のやる気を引き出したこととは対照的でした。 また劉邦は、「功あらば必ず賞す」との原則に立ち、 部下の功績に対して、即座に莫大な恩賞を気前よく与えたのです。そして、有能であれば、一時寝返った者も許して配下に組み込むほど寛大で、器量の大きな人物でした。劉邦は、君主とは部下と才を競う存在ではなく、 才を用いるのが仕事とわきまえていました。才よりも器こそ名将の条件なのです。そして劉邦は敗戦から何度も立ち上がる不屈の闘志を持っていました。そんな彼が築き上げた漢は劉邦の亡き後も続き、前漢時代は214年、後漢時代を加えると400 年を超える長期の王朝となったのです。
項羽は英雄的であったものの、傲慢で独裁的な性格が彼の没落を招いたのに対し、劉邦は柔軟で賢明な判断力を持ち、周囲の力をうまく活用することで成功を収めました。偉大な人物もその運命を左右するのは、性格や判断、時の流れにどう対応するかによるのです。劉邦の勝利の要因として、その柔軟な態度と環境に合わせた判断が挙げられます。常に状況を冷静に見極め、成功するするためには、常に変化を受け入れ、新しい状況に適応する能力が鍵となるのです。
 もし司馬遷が死に急げば、この壮大な歴史書である『史記』は、この世に存在しませんでした。歴史学に対する多大なる影響はもちろんのこと、そこから得られるさまざまな教訓、そして、司馬遼太郎の小説『項羽と劉邦』や横山光輝の漫画『史記』を読む楽しさは得られなかったのです。

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