猫になりたい
写真において、その人らしさを形成する要素として、大きく分けて、視点、距離感、色彩の三つがあると考えています。撮影者がそれぞれをどのように定義し、どれくらい一貫性を持って取り組むかが、その人らしい写真の輪郭を描くひとつの秘密になる気がしています。
このうちの「距離感」については以前、『主観と客観を超えた眼差し、その距離感』で自分の考え方に触れました。これは”ゴースト”という目には見えない、未来に死んだであろう自分自身を架空の匿名的な存在に見立て、その目線に立って撮影することにより、写真そのものを「わたし」ではなく「あなた」が見ている世界に置き換えようとするというものでした。ある日、子供を撮ろうした時、自分の生まれ変わりをそこに見たことに起因しています。ここでは再度この「距離感」の定義について考えてみます。
そもそも、撮影対象についてアングルや構図を切る際「これは一体誰の目線なのか?」という問いが常にそこに立ちはだかっています。なぜローアングルなのか、なぜ手前に物があるのか、なぜ高いところから俯瞰するのか… といっても、日常のあれこれをスナップするとき、そこまで複雑に考える必要はないはずです。なんとなく、格好いいから、綺麗だから。写真は、それくらい自由に簡単で軽やかに楽しめる行為であってほしいとも思います。
それでも、もしカメラを構える自分自身という存在が一体何であるかを考えるなら、通常は、自分は自分であるという認識で対象に向き合うことがほとんどではないでしょうか。それによって、自分と誰か、自分と世界、という関係性がカメラを介して生まれるはずです。だからこそ「カメラ」という、あえて生身の人の目ではないものを通して何かを見るという行為が、不自然で作為的なものであることを無視できなくなるのです。
例えば、日常のスナップからさらに踏み込んで、お芝居のような「予め設定された状況」を撮影するとき、カメラが一体誰の目線によるものなのかを考えることがより必要になってきます。演技という虚構をそこにはいないはずの人間が、カメラやレンズという機械で恣意的に映すことの不条理を、不思議なことに誰もが当たり前のこととして受け入れて映画やドラマ(やその写真)を見ています。すべてが用意された場において、そもそもその状況を見ているのは誰であるのか? 特別な意図や演出がない限り検討違いの距離やアングルは鑑賞者が混乱する原因にもなります(そういうあれこれを超越するような写真や映像ももちろんあります)。ゆえに、カメラに誰の目線を割り当てていくのかがとても重要になってきます。
何度も繰り返します。そこに写るのは一体、誰の目線によるものでしょうか。みなさんはそれをどう考えますか? 当然、主観や客観といった目線があるかもしれません。しかし、それ以外にはもうないでしょうか? そう考え始めると、撮影者の存在(あるいは不在)をどう捉えるかは、撮影という行為が宿命的に抱える命題であり、結局は避けては通れない考えなのだとだんだん気づきます。
ここでようやく話の核心に迫ります。この目線の起点を定義するひとつの鍵として捉えたのが”ゴースト”という概念でしたが、それがあまりに観念的すぎることも理解しています。一体何の話をしているのかと自分でも思うほどです。そこで、この概念をより具体的な存在に置き換えてみようと考えました。だとすれば一体何があるでしょうか。
人が住む日常の世界にいて違和感がない。視界に入っても時には見過ごされる。反対にそれに見られていることを意識しないでも済む。興味がありそうでも、なさそうでもある。コミュニケーションがぎりぎり取れる、もしくは取らなくてもよいところにいる。ある種の透明性を帯び、傍観するようにして私たちの世界をあらゆる角度から見つめている、かもしれない存在...
それは「猫」なのかもしれません。街角で見かけたあの猫は一体何を見つめているのだろう、そう思ったことはありませんか。気づかれることも、気にされることもなく誰かが生きているのを少し離れた場所からそっと眺めている(ような気がする)猫たち。私たちが住むこの日常においてこれほど稀有な存在は他にないかもしれません。
つまり、"ゴースト"の距離感によって撮られた写真が、実は猫が見つめていた光景なのだと思えば、いろいろなことが突如として腑に落ちるのです。死んだ人間が生まれ変わったのが、猫。私たちが猫を見つめているのがこの世界なのではなく、猫が私たちを見つめているものこそがこの世界なのだと捉えてみます。その目線をカメラに置き換えれば、世界の見え方や対象への距離の測り方がより具体的になる気がしています。
さて、「撮影者の存在をどう捉えるか」の主張のひとつに「ファインダー越しの私の世界」というものがあります。SNS時代以降において広く使われるようになりました。これを「世界」(対象)との距離は、常に「わたし」(撮影者)という存在を起点に測られており、「わたし」なしには「世界」は存在しないというゆるやかな態度が実際の距離感として写真に表出していると解釈しています。撮影者の足元が写っていたり、空にかざす手が写っていたり、原則的に、カメラ=撮影者である自分自身、という主張が自動的にそこに写っています。また、最近では「POV」(=point of view)と呼ばれる撮影手法がミーム化し、本来の「視点」が転じた「(一人称)主観(ショット)」という意味が「状況設定」のような使われ方をし始めていたり、ニュアンスがどんどん拡張しています。
一方、わざわざその起点を自分自身ではない”ゴースト”(ここでは猫)のような匿名的で高次元の目線に置き換え、そこからの距離を測って写真を撮るのには理由があります。なぜなら、そうすることでより写真に写る光景を見ているのは撮影者である「わたし」ではなく、鑑賞者である「あなた」にすることができるかもしれないと思っているからです。だからこそ、必要なのがこの付かず離れずの「距離感」なのです。対象との直接的な関係が発生しないことで撮影者の存在が透明化し、写真を見ている「あなた」がまるで、写真に写るその場にいるかのように感じられること。そんな写真が撮れたらいいなと思っています。
写真を撮る人なら起点がなんであれ誰でも意識、無意識に関わらず対象への距離を測っているはずです。もちろん、その「距離感」を猫で捉える必要はどこにもありません。猫もそんなふうに世界を見ていないかもしれません(結局また何の話をしているのか分からなくなりました。)。それに一般的には主観の目線こそが臨場感や没入感を生み出すとも言われています。そして、カメラは結局「カメラ」でしかなく誰でもないのも事実です。
それがどうだったとしても、大切なのは「距離感」をどう定義するかなのです。撮影者が「カメラ」というある種の不条理な存在に真摯に向き合ったうえで、対象をどう見つめるのか、そもそも「カメラ」の存在とは? という問いを自覚的に考え、距離の測り方を固有に一貫させることは、写真がその人らしいと信頼するときにとても大切な要素のひとつになる、そう思っています。