誰かを助けられるように
誰しも一度は「なぜ勉強するのだろう?」と考えたことがあるのではないでしょうか。私たちはなぜ勉強するのでしょうか?
例えば、やりたい仕事があるから、お金持ちになりたいから、賢くなりたいから、人の役に立ちたいから、勉強しなさいと言われるから、できるほうが楽しいから、みんなやっているから… 理由は人ぞれぞれだと思います。きっとこれが正しいという答えもありません。
自分の過去を振り返ってみると、漠然と勉強はするほうがいいんだろうなと思うことはあっても、明確な理由を持たず流れるままに勉強してきた気がしています。義務教育といくつかの試験を受け、それから社会人になり、時には懸命に、時にまったく身が入らず、たぶん人並みには学びながら紆余曲折があって今に至ります。なのに、その過程で誰かに勉強する理由を聞いたこともなければ、教えてもらったことも一度もありませんでした。みなさんはどうでしょうか。
そんな自分がいつしか二人の子供の親となり、どうして勉強するのかという問いについて考えるようになりました。なぜなら、理由もわからないまま子供たちに「勉強しなさい」と言うことはできないと思ったからです。なんでだろう? そう考えているうちにたどり着いたのは、自分がどう生きたいか、というとてもシンプルなものでした。この話は、二人の子供たちになぜ勉強をするのか、それを伝えるために考えていたことです。といっても、全部きっと当たり前のことばかりで、そんなこともちゃんと考えないで生きてきたのかと言われそうですが、親になることでようやく自分なりの考えが見つかったのです。
例えば、計算ができること。家から駅までの距離と移動する速さを知っていればどれくらいの時間がかかるかが分かります。約束の時間に遅れないようにしたり、相手の到着時間が分かるようにもなります。お金を数えられること。足したり引いたり割ったり掛けたりすることで、間違いなくお金を得たり分けたり管理できます。論理的に問題について考え解決できるようになる。それによって騙されないようにもなるはずです。
例えば、社会の仕組みを知ること。私たちが住む世界の構造を知り、歴史を知ることで、人がどのような背景で生きているかを想像できるようになります。世界の広さを知れば遠い場所に想いを馳せたり、実際に行くことができるかもしれません。そこから自分が元いた場所を眺めて、それぞれの違いを知ることによって、自分が何者であるかがより浮き彫りになるでしょう。経験を重ねることで、生き方が豊かになる。それによってやりたいことや、やるべきことが見つかるかもしれません。
例えば、言葉を知ること。自分の考えていることをできるだけ正しく伝えられるようになります。好き、嫌い、嬉しい、悲しい… 言葉を知れば知るほど、たくさんのことが理解できるし、伝えることができます。自分のことだけでなく向き合う相手の考えていることを聞くことができるし、想像することができます。様々な感情や身の回りの現象を捉えられる。それによって見えていなかった物事にも気づけるようになるでしょう。
でも、思っていることをうまく言葉にできないと、いらいらしたり不安になったりしますよね。訳がわからなくなって怒ったりしてしまうかもしれません。向き合う相手のことを大切に思っているのに、それが伝えられずもどかしく思うかもしれません。そもそも相手がどう思っているのかちゃんと理解できないかもしれません。言葉を知らないゆえに即席の短い言葉にとりあえず収めてしまうこともあります。それがうまくいくときもありますが、ほんとうは複雑で多様なはずの心の模様は、それほど簡単に表せるものでもないと思います。
自分にとって相応しいと思える言葉を見つけ使えるようになることは、自分を知るための大きな方法のひとつなのだと思います。そのためには、たくさんの本を読み、誰かと出会って話をし、まわりの世界に触れる必要があるし、そして、自分が何を考えているかを知ることが大切なのだと思います。自分の思っていることを言葉にできるということは、自分が何を考えているかが分かるということです。つまり、自分自身のことを知ることができる。自分が今どこにいて、一体何をしているのか、これからどうしたいのかが分かるようになるのだと思います。
もちろん、他にもいろいろ。
全部当たり前ですが、どれも生きていくうえで必要なことばかりです。世界を知り、人を知り、自分を知る。そうすることで、私たちは互いを信じられるのだと思います。誰かを信じ、信じられることによって、心は強くなり、たとえ不安を感じたとしても軽くすることができるかもしれません。
不安がよりなくなるということは、自分の力で生きていけるようになるということだと思います。少なくともそうでありたいと思える状態になること。自立した一人の人間として存在することを自分自身が認められる。とても大切なことだと思います。ここで、とうとう勉強をする理由にたどり着きます。
私たちは自立した一人の人間になることで、ようやく、誰かを助けられるようになるのだと思います。反対に誰かの助けを素直に受け入れられるようにもなれる。人の役に立ちたい、からさらにもう一歩踏み込んで、誰かを助けられるようになるということ。まずはじめに自分自身が自立していなければ、誰かを助けることはままならないと思います。いえ、実際にできるかどうかではなく、そうなろうとすること、その気高い精神を持つことが大切なのだと思います。そのためにはたくさんのことを知り学ぶ必要があるのではないでしょうか。
もし幸運にも五体満足で心健やかなのであれば、誰かを助けられる人になって欲しい。それがどんな小さなことでも大きなことでも、身近でもそうでなくてもいい。救うなんて大袈裟なことでもなく、偉い人になる必要もない。ささやかにでも自立するためには、たくさんのことを知って、そして、自分を知ることが必要で、そうしてようやく誰かを助けられるようになるはず。そうなれたらいいな。子供たちにはそんな話をよくしていました。
ほんとうは勉強はやりたくなければやらなくてもいいし、理由なんてなくてもやりたいならやればいいのです。でも、もし理由があるとすれば? その子供たちは今はもう義務教育を終え、それぞれの意思で学びの道を歩んでいるところですが、いつかしたこの話を覚えていてくれたらいいなと思います。誰かを助けられるように。