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100年後に見つけてもらう
なんで撮ってるんだろうな、つまらない写真だな、こんなことしても意味ないな、というときがたまにあります。みなさんにもそういう経験はありますか?
インターネットとSNSの発展によって、写真を発表する機会がとても多くなったと思います。写真を撮ってSNSで発表することが当たり前になってずいぶん経ちました。それによって、これまで知られることがなかったかもしれない写真が世界中に届くようにもなりました。自分もそうやって、見たり見てもらったり、たくさんの機会を得てきた一人です。
一方で、それによってさまざまな苦しみも増えたと思います。渾身の一枚をたくさんの人に見てもらえるかな? あの人の写真ははたくさん見られていていいな、自分もそういう写真を撮ったほうがいいのかな? など… どんな人でも一度はそういう悩みを持ったことがあるのではないでしょうか。誰かと自分を比べてしまって辛くなってしまったり、それで写真が撮れなくなってしまったり… そんなことはありませんか?
SNSには加速度的に広がっていく構造があります。だから、いつの間にかそれに合わせて見てもらおうとしてしまうのは無理もないことだと思います。そして、とてつもない速度のなかで、自分で撮った写真でさえゆっくりと見返したり向き合ったりする時間もないまま、次から次へと新しい写真が現れては消え去っていきます。現代において自分のペースを保ちながらSNSとうまく付き合うのはとても難しいことですよね。
でも、そもそもこれはSNSだけの話ではないのかもしれません。写真を誰かに見てもらいたいという気持ちと現実の状況をどう折り合わせていくかという問いは、撮ることに真摯であれば自ずとどんな人にも生まれるものだと思います。今だからではなく昔から変わらないことなのかもしれません。
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そういうときはいつも100年後のことを考えます。100年後に見つけてもらえるなら、今は見られなくてもいい。それよりも写真がそれまで残っていることのほうがずっと大事です。なぜなら、どんな写真でも100年後も残っていれば、それだけで貴重で価値のあるものになるはずだから。
例えば、10年前に流行った写真も、今流行っている写真も、そのどちらでもない写真も、100年後という遠い未来にとっては、流行りを超えてすべて平等ななものになるはずです。今から100年前に撮られた写真を見て私たちが感じるそれときっと同じになるはず。
だから、今どういうふうに見られるかは、実はそれほど重要なことではないかもしれません。もっといえば、未来の人にとっては、誰が撮ったかよりも、そこに何が写っているか、何を感じられるかのほうが重要になると思います。写真にはそれができるだろうし、そんな力を想うと、ああ、それくらいの気持ちでいればいいんだなと思えるかもしれません。
そうするとなんでも迷わず撮れるようになってくる気がします。むしろ、あらゆるものを撮っておきたいようになります。できれば出会う人みんなを遺しておきたいと思います。この瞬間ごとにすべてはなくなっていってしまうのですから。
100年後に見つけてもらう。いつか遠い未来にたまたま見つけてもらう。たとえ見るのがたった一人だとしても。きっとそれくらいがちょうどいい。そんなことを考えて写真を撮ってみれば、解き放たれた自分のなかで少し世界の見え方が変わるかもしれませんね。
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それでは写真を100年後にも残しておくはどうすればよいのでしょうか? それはまた別の話。
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