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集団の上下関係と中心の有無考察

次の本からの気付き。

『「人の世界」と「物の世界」』出光佐三 著  春秋社(2014)

我々の中心に何が来るか、という話である。

物が中心に来ると、そのために人が存在することになる。
人が中心に来ると、そのために物が存在することになる。

では、民主主義はどうだろうか。
人が中心と言えそうである。
しかし、この考えも、自己が中心となった時点で、結局物が中心となり、誤った方向へ行く。
著者の出光佐三氏は、この民主主義そのものに、日本が教わることはないと述べている。
「物の国」の思想である「権利」という概念そのものへの疑問を呈している。

氏は、皇室についても述べている。
日本における皇室は「中心」であって「主」ではないという。
「主」とは、権力者が上から臨んでいる状態だからである。
権力者とは異なる立場であるはずの皇室を、海外の思想に沿って当てはめること自体に反対の立場である。

中心があると、外側ができる。
中心と外側には、広がりがあるものの上下関係はない。
0を中心とした、X軸とY軸の関係である。
建物で考えるなら、平屋であり、平安時代の寝殿造り、京都御所のような構造である。

ピラミッド型は、上下関係である。
これは、言うなれば平面に対するZ軸である。
ピラミッドや城、高層ビルのような構造である。

ある集団において、人を中心に考えたとして、誰を中心に置くかである。
例えば、学級における子どもの班の中から、班長を一人決めるとする。
班長は、班の決め事の「中心」である。
何をするかの確認をしたり、提案をしたりする。
しかしながら、班長というものは子どもメンバー内の「上」あるいは「上司」ではない。
あくまで、中心である。

職員室でいうと、これは学年団に相当する。
学年主任が中心にいて、それぞれの担任や専科がいる。
原則、ここに上下関係はない。
学年主任とは、あくまでも学年の中心であり、役割の一つである。

この役割そのものに上下関係の意識を持ち込むと、変なことになる。
人間関係における上下関係はまた別物である。

人間関係の上下は別に存在する。
例えば、年齢である。
仕事の役割上にそれはなくとも、年長者を敬うというのは、文化的なものである。
日本において、年齢を全く無視した言動は、傍から見ていて気持ちのいいものではない。(儒教の国であり、年長者を重んじる韓国などでも、同様ではないかと思われる。)

具体例を挙げる。
メンバー内に定年退職して再雇用されている方がいたとする。
その人に対し、年若い学年主任が「タメ語」で話している状況を考えてみる。
明らかに違和感満載である。
そういう感じである。

1コ違うだけで相当偉そうにされる部活動の先輩後輩のような世界に嫌気がさしている人も多いことだろう。
(年下にそういう態度をとってきた人には大いに反省していただきたい。)
そういう反動もあって「年齢の上下は関係ない!」→「人には上下がない!」となりやすい傾向があるかもしれない。
しかし、やはり違和感が残る。

人間関係の上下は、役割と別に存在するのである。
それは「社長だから」とか「○○部長だから」とかいう単純な話だけではない。
そこに付随する様々なことを勘案して、文化的な面も含めて総合的に考えるべきところである。

ちなみに学校職員でいうと、校長や教頭などの管理職は、中心というより確実に「上」の立場である。
そこには年長者への敬いとは別に、職務として従う上下関係が存在する。
校長の方が年下だからとかいうことは関係ない。
これは多分、国が変わろうが文化が異なろうが、関係のない話である。

上下というもの自体に善悪はない。
上と下がはっきりしているというのは、安定を生む。
責任の所在にもつながる。

中心の存在は、安心を生む。
迷った時の拠り所となる。

それは上下か中心か。
職員間に限らず、子どもや保護者とのあらゆる関係を考える際にも、意識したい。

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