#57 中道を生きる それは真ん中ばかり選ぶのでなく 人生の本質、現実に目を向ける
当たり前のことを書きますが、仏教はお釈迦様が説いた教えです
そして、決してお釈迦様の意見ではないです
つまり、お釈迦様が、この世の真理を発見されて、
それを弟子たちに伝えた教えです
真理というのは、どんな環境でも、どんな時代でも、
どんな人種でも、誰にでも、どんなものにも変わらないこと
この世の法則みたいなものです
私たちは、何か問題というものが起きない限り、
すこし立ち止まって観たり、深く考えたり、わざわざしません
私たちが持つ感覚器官、これは常に私たちの外に向かってついています
ですから、自分の外にある問題、外にある刺激を求めて生きています
その刺激が、快楽であれば求めて、
その刺激が、苦痛であれば避ける、これが本能です
そこで、自分の外側ではなく内側、
つまり身体に意識を向ける時はどんな時でしょう?
これはやはり、痛みだったり、違和感だったり、
「なんかイヤだなぁ」という不快感がある時ですよね
身体のどこも痛くない、または特に何も不快感がなければ、
普段身体のことは考えませんよね
そんな時に急に、お腹が痛くなったりすると、
「あれ?どうしたんだろう?何か変なもの食べたかな?」と、
自分の内側に意識を向けるんです
子どもの時でも思い返すとそうだと思いますが、
何かすごく楽しい時、夢中になって遊んでいる時に、
自分の心の不安のことや身体のことなんて考えないはずです
そして、何かうまく行かなかったり、失敗したり、進路で迷ったり、
誰かに否定されたり、失恋したりと、いろんな出来事があって、
心が迷ったり、締め付けられたり、落ち込んだりして、
心が痛くなるわけです、そうなってから自分の内側に意識が向くわけです
こうした心の動きや、喜びや憂いがどのように起きるのか、
これを徹底的に観察し、分析されて、真理を発見されたのがお釈迦様です
ですから、私たちの真理をよくよく観察して、
こんな風に様々な憂いが作り出されるんだと、このことを発見されたんです
それが、お釈迦様の教えです、つまり仏教です
私も今から約8年前に病気をして、足が不自由になりました
それまでは当然、普通のことのように動き回っていたので、
自分の足が、このようになるとは考えてもいませんでした
周りに相談しても、同じような状態の人がいなかったので、
「大丈夫、きっと治る」とか、言われました
例えば、私が、見ず知らずの公園で全力で遊んでいる子どもたちに、
同じように相談したとしても、きっと励まされるでしょう
これは、子どもたちがまだ自身の身体に老いや病気、
そして憂いを持っていないからです
他にも周りに、恋人や配偶者も含めて相談したとして、
「もっとポジティブに行こう」と、大体言ってくれます
そしてそのことによって、自分が励まされることもあります
あるいは、自分は深く考えすぎなんだろうか?
この人たちには自分のような憂いが無いんだろうか?と、
時として考えてしまったりします
この周りと自分とのギャップ、これが出てくるのは、
単純なことで、老いや病気、もしくは死ということを、
その身を持って実感したかしてないかの差です
ポジティブに考えて生きていく、これはもちろん悪いことではないです
単純に病気のことを知らないだけかもしれない、
あるいは知っていても、知らないふりをして、
ポジティブで生きることが幸せなんだと信じているのかもしれない、
さらには、実際に今、老いや病気が起きていることに、
自覚が無いだけかもしれない
私はまさに病気になった時、これらのことに直面しました
これらは幻想でもなんでもなく、人生の現実です
現在は、情報化社会なので、あらゆる病気のことを私たちは知っています
しかし、実際に自分が体験しなければ、やはりわからないんです
恋愛についてもそう、そのことは知っていますが、
本当の恋愛をしないと、その痛みやその喜びもまたわからないかもしれない
お釈迦様はこうした人生を徹底的に観察、分析をして、
私たちの人生には、苦が満ちていることを、この事実を突きつけられました
実はみなさんも知っていますよね?
いつか病気になり、年老いて、そして死んでいくって
けれども現在では、その死を見なくなってきています
大体の場合、病院で死にます、生まれる時も死ぬ時も病院です
この人間にとって当たり前の、いずれ病気や老いて死ぬという事実、
これが、この社会の中では見えないようになってきています
どんどん排除されていっていて、何か死なないように生きています
死というのは何か遠いところで起きていて、
病気は自分とは関係ない世界で起きていると思っている
そしてそれが、自分自身に訪れるまで、自分のことを振り返らない
私もそうでした、病気するまでは
みなさんもそうだと思います
私は身体が丈夫で、何か起きても大丈夫だと思い込んでいました
しかし今の病気とは別に2度、死にかけました
1度は娘が罹った手足口病に感染した時、もう1度は、
みなさんもよくご存じのアナフィラキシーです
この時は、どんなに自分は丈夫だと思っていても、
根性だなんだと言っても、どうすることもできないんですよね
また長々と書いてしまいましたが、
よくあまり考え過ぎも良くないと言われますが、
私たちは考える頭を持っています
だから、考えなきゃいけないことは徹底して考えた方が良いんです
考えてもどうしようもないことを考える必要が無いんです
考えるということは、人間が持つ能力です
これをちゃんと、使わなくてはいけない時に、ちょうどそのタイミングで、
使わなくてはいけないところに使う、
この使うべき時じゃないのに使っているから、「考えるな」となるんです
考える時は、徹底して論理的に考える、これはとても大切です
そのように考えていると、そこから観えてくるものは、
どんな人でも、いつかはわかりませんが、老いて病んで死ぬんです
それが実際に体験したり、直面するのが早いか遅いかだけです
たまたま私は、それが30代だったわけです
ちょうど長女が中学校を卒業して、新しく高校へと入学する時期でした
当然いろんなことを考えました
「これからどう生活しよう」、「自分の人生とはなんだろう」、
「この娘たちに何ができるだろう」と、考えさせられるほどに、
自分が病気をするというのは、衝撃でした
ですが、果たしてこれはネガティブな出来事なんでしょうか?
みなさんはどう思われますか?
私は、これぞまさに、人生の本質、現実に目を向ける、
夢から覚めて現実を見るきっかけになった出来事だと思います
いずれ必ず直面することを前もって理解し、起こることを知り、
そこに備えていく心や身体の準備をしている人と、
それを知らずに、着々と進行している老いであったり、病であったり、
あるいは死であったり、それらを観ないようにして生きている人では、
全く違います
観ないように生きていると、ある日突然やってきます
ブランコでもわかるように、ポジティブの方へより高く引けば引くほど、
それが離れた時に、よりネガティブの方へ飛び出します
受験生なのに、なんとかなるという謎の自信で、
日々をいつも通り、漫画を読んだり、友達と遊んでいたら、
いざ、試験を受けたら志望校に受からなかった、これと同じです
誰しも必ず老いて病んで死ぬ、
この時にいち早く現実を見据えて生きてきた人とそうじゃない人、
それが人生の早い方で訪れる人と、後半になって訪れる人
自分の心の備え、準備や練習ということについては、
人生の後半で行うよりは、早いうちに行った方が、
より対策が立てやすいです
これを読まれているみなさんが、楽しいと悲しい、
どっちを自分の軸として生きていくか
これは実は、どっちも人生はあるんです
ネガティブに考えてはいけないのか、そんなことないです
ネガティブとよく呼ばれる、悲しみや痛みなどの憂いがあるからこそ、
私たちは、現実に気づくことができます
ポジティブばっかり、ネガティブばっかり、
人生はどっちか片方だけではないですよね
その両方を見据えた上で、今自分はどう生きるか、
これを仏教では、中道といいます
中道というと、なにか極を取らずに、
真ん中を行くと思われている方が多いように思います
極を取らないと言いながら、真ん中という極を取っているんです
極を取らないようにし過ぎると、どんどん逆に極へ寄ってしまいます
ですから、右へ行き過ぎても、左へ行き過ぎても良いんです
人生は長いですから、いろんな局面があります
その長い自分の足跡を観て、平均していけば自ずと、
真ん中辺りを進んでいる、それで良いと思います
他の人が、右だから私は左、右と左に分かれているから真ん中と、
そう決めつけてしまえば、結局のところ極を取ってしまいます
平均、いわゆるアベレージですね
そして、右も左も両方見据えた上で、
今、自分がどのように生きていくのか、
これが非常に大切だと感じています
ネガティブな感情を持った自分、決して責める必要ありません
ポジティブな人たちを、羨んだり、非難したりする必要もありません
人生には、ネガティブもポジティブもたくさんあります
そのことをきちんと知った上で、今日を、まさに今を、
自分がどう生きたのか、生きていくのか、
これが人間の幸せに繋がっていきます