ざっくり戦後日本ポピュラー音楽史③の2
前回は60年代のポピュラー音楽におけるテレビの力とヒット曲、ビートルズのデビューと日本におけるその影響について書いたので、今回はその続き。
↑ 前回の記事。
ビートルズの影響とGS
前回も触れたビートルズのデビューから日本でいう「リバプールサウンド」の流行と影響によって表舞台に出てきたザ・スパイダース。彼らを代表とするグループ・サウンズ(以後GSと表記)の面々は大いに人気を博すものの70年代を前にしてブームは終焉に向かう。終わってみれば如何にもテレビと芸能事務所が大きな力を持つことになった60年代的な現象だったといえるかもしれない。
当時人気のあったグループと代表曲は以下の通り。
ザ・スパイダース「あの時 君は若かった」(詞・菅原芙美恵/曲・かまやつひろし)
ブルー・コメッツ「ブルー・シャトウ」(詞・橋本淳/曲・井上忠夫/編・森岡賢一郎)
ザ・タイガース「君だけに愛を」(詞・橋本淳/曲・すぎやまこういち)
オックス「スワンの涙」(詞・橋本淳/曲・筒美京平)
ザ・ゴールデン・カップス「長い髪の少女」(詞・橋本淳/曲・鈴木邦彦)
ヴィレッジ・シンガーズ「亜麻色の髪の乙女」(詞・橋本淳/曲・すぎやまこういち)
ザ・テンプターズ「エメラルドの伝説」(詞・なかにし礼/曲・村井邦彦/編・川口真)
他にも多くのグループが存在し人気を得ていたが、上記のようにその人気楽曲のほとんどがプロの作詞家・作曲家が手掛けたものであり、今日の一般的なバンドやアーティストのように自作自演でヒット曲を作るという流れは日本ではまだ少なかった。
ベンチャーズとエレキブーム
1959年に結成され、サーフ・ロックの元祖と呼ばれるザ・ベンチャーズによる影響も日本のポピュラー音楽においては大きい。65年の初来日から以後メンバーチェンジがありながらも何度も来日を果たし、ベンチャーズ歌謡といわれ楽曲提供で直接日本音楽界に影響を与えている。
「初恋」で知られる村下孝蔵など多くのミュージシャンがベンチャーズの曲を演奏する姿を今でもYouTubeで見ることができる。
フォークと政治の季節
元々は「民謡」と訳されることの多い「Folk song」という語が今日的な意味合いの音楽として理解されだしたのも60年代だろう。当初は比較的裕福な学生の間で流行していたが、66年に発売されたマイク真木「バラが咲いた」(詞/曲・浜口庫之助)のヒットによって大きく取り上げられるようになった。
その後もザ・ブロードサイド・フォー「若者たち」(詞・藤田敏雄/曲・佐藤勝)などがヒット。翌年には森山良子「この広い野原いっぱい」(詞・小薗江圭子/曲・森山良子)が発表された。
ここまではGS=ロック的な音楽に対する一種のカウンターのようにして発生した知的で穏やかなカレッジフォークの流れであり、GSブームに乗れない学生たちを受け入れる器であったが、より強いメッセージを発信する歌の流れが関西から誕生する。それが関西フォークであった。
①で触れたうたごえ運動の流れで49年に発足した「関西勤労者音楽協議会」(労音)の影響が強い関西において、よりメッセージ性の強い歌が登場するのも今にして思えば当然で、労音が手掛けたイベントから多くのフォーク系ミュージシャンが登場している。
中でも強力だったのが67年、ザ・フォーク・クルセダーズの自主製作ファーストアルバム『ハレンチ』だ。ここからシングルカットされメジャーから発売された「帰って来たヨッパライ」は日本民謡からビートルズ、クラシックまでを引用しながらもユーモアと知性を感じさせる歌詞によって大ヒットを記録。アングラフォークの火付け役となると共に音楽好きからは大きな尊敬を集めた。
勢いに乗る関西フォーク陣からは今年八月に亡くなった「受験生ブルース」の高石友也を筆頭に、五つの赤い風船、岡林信康、東京から拠点を移した高田渡、遠藤賢司などのミュージシャンが台頭してきた。
彼らの多くは東京のフォークと違い、実際に現場で労働しながら、音楽活動を行った。生活としての労働が肉体に染み付いた彼らによる音楽は今聴いても実感を伴っており納得感が違う。上澄みを汲んだような音楽に飽きたら聴いてみてほしいと思う。
時代は60年代全共闘による大学紛争の只中であり、元々左翼界隈から生まれた労音との親和性は高く、社会問題に対する関心の高い人々の手によって広まり、新宿駅西口広場でのフォーク・ゲリラなどの運動も行われた。実際に高田渡がかつて民青に所属していたりと歌の中に政治を取り込むミュージシャンも多くいた。
1966年という年
ビートルズが来日したこの年は、日本のポピュラー音楽にとっても大きな年となった。
スパイダースの最初のヒット曲「夕日が泣いている」が66年発売、フォークを世に広めた「バラが咲いた」も66年である。大衆向けにエレキを流行らせて自作自演の草分け的存在でもある加山雄三がヒットを飛ばし、ザ・ピーナッツもまだまだ現役の時代。GSとフォークはコインの表と裏のようなものであり、後には交流も広がる。
ビートルズの来日公演を受けて音楽の道を志したミュージシャンも多いうえに、他の業界においても大きな刺激を与えた。それほどビートルズの存在というのは世界的に絶大だったのだ。それは今日においても同様だろう。
まとめ
洋楽的なサウンドに日本的なメロディーを乗せた和製ポップスが歌謡曲となり、テレビが大衆を惹きつけ、エレキやカレッジフォークやGSが流行したこの時代は新世代の作詞家・作曲家が台頭した時代でもあった。作詞家では、阿久悠、なかにし礼、橋本淳、岩谷時子、山上路夫など。作曲家では、すぎやまこういち、筒美京平、いずみたく、村井邦彦などが有名だろうか。彼らによって歌謡曲黄金期は作られていく。
他にも古賀政男を起点とした今日的な演歌がしっかりと形作られたのもこの時期だろうし、80年代以降の市場を席巻するジャニーズ事務所もこの頃設立されている。音楽をアルバムで聴くという文化もこの頃に生まれた文化だ。64年に『平凡パンチ』が創刊されるなど雑誌文化も勢いがあった。
敗戦から立ち直った日本が、アメリカの50年代から十年遅れて本当に豊かになってきたこの時代は日本のポピュラー音楽にとってターニングポイントとなった時代だ。