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0:古びた写真がまねく終わりの気配

最近、写真の整理をしている。
年の瀬になにをやっているのか、という気持ちがないではないが、それはまだ継続中だ。

写真というのは、遺品としてはもっとも処理に困るものだと聞いたことがある。
たとえばそれが祖父母のものであれば、故人の生きた証でもあり、それはつまり自分の躰に流れる血のルーツでもあるだろう。モノクロの写真であれば、いまよりも1枚の写真の価値が重かったはずで、慎重に撮影されたであろうアルバムの1枚1枚が、すべて貴重な瞬間であったに違いないのだ。
そういった人生の縮図を、ろくに確認もせずに捨ててしまっていいのかという葛藤を抱く人は、少なからずいるだろうと思う。
デジタル化が進み、クラウド上に見返しもしない写真が溜まっているような人にとっての写真とは、1枚の意味が違うのだ。

真のミニマリストは、古い写真をスマホで撮影してクラウドにアップし、現物を捨てる、ということもやるそうだ。なるほど理に適う気もするが、そこまでいくと、なにかべつのものまで一緒に捨てているような感じがする。

私が整理しているのは自分の写真である。
捨てようが残そうが、それは好きにしていいわけだが、やはり捨てられない。私も普通の人間だったらしい。

整理しながら、付随するあれこれを思い出す。このときはこうだったとか、端に写りこんでいるマグカップはこのときからあるのかとか、他愛もない。
しかしそれを繰り返しているうちに、あまり思い出さなくなっていたことまで連動して出てくるようになってきた。

これは私の悪い癖だが、そうなってくると情報を整理したくなる。写真の整理をしながら記憶の整理までするとは、なんとも効率がいいのか悪いのかわからない話だ。

私が覚えている一番古い記憶は、2歳ごろのこと。
そこからできるかぎり時系列に並べていく。写真に記された日付によって、前後関係が確定することもある。幼いころに観た覚えのある番組も、Wikipediaなどで放送時期を調べて年代を振り分けていく。
そうか、この時期にやっていた戦隊モノはこういうタイトルだったのか。こっちの番組は5年後に放送終了か。じゃあ観た覚えがあるのは放送終了間際だったのかもしれないな。私は一体なにをやっているんだろう。

そうこうしているうちに、自分の持っているアルバムや、学生時代の写真などを見終えて、今度はデータのほうに移った。デジカメや携帯電話の写真である。もともと年代でフォルダに分けているので、時系列はあまり問題ない。初代のデジカメは日付のデータが一部飛んでいるが、基本的には撮影日付が写真のファイルごとに刻まれている。便利なものだが、なんだかちょっとだけ仕事を奪われたような気になるのはなぜだ。

データのほうは、2012年まで確認が済んだ。あと10年分あるということになる。だがそれで終わりというわけではない。

次はイラストの確認がある。2001年からのイラストは日付を入れてあるので、時期ははっきりしている。ただ、いつ描いたか覚えていない細かいものもある。それらをいつ描いたのか。年表に記載することで、より前後関係が明確になるはずである。

お気づきになっただろうか。いま、さりげなく年表と書いたが、キーボードの打ち間違いではない。前後関係を年代ごとに振り分けるうち、いつの間にか年表になっていたのだ。
繰り返すが、私は一体なにをやっているんだろう。

写真と連動して、古い小物もある。物持ちがいいほうなので、古い写真に写っている小物が、まだ手もとにあったりするのだ。数年前に倉庫のような場所を大掃除したので、記憶に新しいものもあったりする。

世界史や日本史を好む人が言っていたが、歴史上のある出来事を知って、勉強を進めていくうち、どこかで出来事と出来事、あるいは人物と人物がリンクすることがあり、繋がりが広がりを生み、それが歴史の面白いところだという。
私が進めているのは自分史という小さな範囲ではあるが、やっているうちに世のなかの事件や、発売されたゲーム、放送されていたドラマなどが、私の個人的な出来事とリンクすることを愉しんでいる自分に気づく。

そしてそんなことをやっているうちに、うっすらと終活をしているような気分にもなっていた。身辺整理というやつか。痕跡を消して消えるということにはちょっとした憧れがあるが、整理して捨てているわけではないので、いまのところ家には痕跡しかない。

人に訊くと、幼稚園あたりのことは覚えていない、という返答もままある。あるいは、転校が多かったので小学3年生くらいからの記憶がスタートだ、という人も。これを読んでいるあなたはどうだろうか?
私には2歳からの記憶があるので、まあまあ早い時期から覚えていることにはなるのだろうか。

とはいえ、幼いころのことは、さすがに前後関係が定かでないことが多い。
いつだったのか。どこだったのか。
そういえば、自分が生まれたときのこともきちんと聞いていない。いや、聞いた覚えはあるものの、はっきりしないところがある。
そういうことを箇条書きにして、まとめて母親に訊いてみることにした。この際である。本当に、私は一体なにをやっているんだろうか。

そして今日、その質問への返答があった。

母からの返答

A4のレポート用紙に手書きの返答。9枚綴りで丁寧に日付まで記入してある。そしてレスポンスのよさ。2日程度で書く文量じゃないし。そのあたりがいかにも母らしい。

おかげで不明瞭だったことの一部が、これでまた新たにわかった。

そして、この返答と一緒にあるものが届いた。
小学校や中学校のころ描いた絵などが、ダンボール2箱。

結構、大きめのダンボールである。

写真の整理のあとに、イラストの整理が控えているが、そこに2箱が加わったわけだ。箱をちょっと覗いて見ただけでも、忘れていたものを思い出す。
ここまできたら、やらないわけにはいくまい。

まずは2012年から現在までの写真の整理を終わらせる。
そのあとはイラスト。そしてダンボール箱。

もう一度言わせてもらいたい。
私は一体なにをやっているんだろう。

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