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3:新しさを拒むのは

1歳のころのことを書こう。
ここまでは、私の記憶ではなく母の記録が頼りだ。
記憶 ではなく 記録。さりげなく 韻踏む歌詞リリック
なんとなく流れで書いたが、私はラッパーではない。

母の記録といっても、このあたりは写真くらいしか手もとに情報がない。それも現在のように、誰もがスマホという名のカメラを持ち歩いているような異常事態ではない。フィルムによる写真など、それほど数は多くないものだ。
父の使っていたカメラの、シャッターを切ったあとに自動で巻かれるフィルムの音をいまでも覚えている。カシャッ…ウィーウィウィーッ。

そういえば、私は12月が誕生日なので、一年の出来事を写真と年齢とともにまとめるのは、案外わかりやすいような気もする。と、そんなことを思っていたのだが、これが学校に通い出すとそうもいかないことに気づく。学年が終わるのは年度末。4月が区切りになってしまうのだ。なぜ世のなかは、こういうシステムになったのだろうか。
今後どんなふうに書いていくかは決まっていないので、記事ごとの区切りをどうするかについては、ひとまず頭の隅に置いておくとしよう。置いたまま忘れてしまう可能性もあるが。

***

さて、写真を見ていくと、海や山、名の知れた渓谷や池などの名所に連れていってもらっていることがわかる。
高原や遊園地的な場所でも、姉と並ぶ楽しそうな姿があった。
いまでもそれらの場所が変わらずにあることが、なんとなく感慨深い。

自然の風景だろうと娯楽施設であろうと、その場が存続することは、決してあたりまえではないと思う。多くの人が関わり、受け継がれてはじめて存続し得るものだ。

何年前だったか、小学校の修学旅行で行ったテーマパークが閉園する、という話を耳にして、それきりまったく行っていないにも関わらず、ちょっと淋しくなった。人間ってやつは身勝手なもんだと思いつつも、やはり思い出の場所が地球上から消えてなくなるのは淋しいものだ。
私が地球上からいなくなるときも、誰かに淋しがってもらえるように生きなければならない。一体なんの話をしているんだ。

***

写真を見ていくと、実家の隣に住んでいた従兄・従姉の運動会の見学などにも、連れられて行っていた。
私は顔を覚えていないけど、従兄は若いころのキムタクに似ていたらしい。すっかり忘れていたが、似ていると見聞きしたことを思い出した。多分きっとモテたのでしょう。多分きっと。実際にはよく知らない。
従兄は、私が幼いころに結婚して、いずこかへ移り住んでからというもの、一度も姿を見ていない。どこに住んでいるのかも知らないし、だから歳月を経たいまもキムタクに似ているという保証は一切ない。知らないのだから、言った者勝ちみたいなものである。

***

この当時のエピソードで、印象的なものがある。
私が「新しいものに対する姿勢」を知らしめた出来事である。

1歳そこらのころ、ずっと端を口にくわえていたタオルがあったそうな。
そのタオルはさすがに古びてボロボロになり、見かねた親が新しいものを与えるも、とにかく嫌がる。
そうか柄が嫌なのか、同じ模様がいいのか、と考え「同じ柄のタオル」をわざわざ遠出して探し出し買い与えるも、やはり嫌がる。
その後も、ボロボロのタオルの端をくわえていたそうな。
新しい服なども、小さいころからとにかく嫌がったらしい。

このエピソード自体は覚えていないが、心あたりがありすぎる。
私は、新しいものに強い苦手意識がある。
たとえば、いままで気にせず過ごしていたのに、シャツが1枚新しくなると、その着心地がいちいち気になる。それはいまも変わっていない。
着るものが新品になった気持ちよさよりも、慣れないものに対する違和感のほうがガツンと先にくるのだ。

昔から、物持ちがよいと言われることがしばしばある。
それはこのあたりの性質と関係がありそうだ。
環境を変えたくないから大事にする。手放さずに置いておく。

それは身のまわりのもの、すべてにいえることかもしれない。
現状に不満がないのに、変化を強いられることが苦手だ。
新しい環境や、変化に対する苦手意識が強烈にあり、人よりもその抵抗感がかなり強いのではないかと思う。

考えてみれば、予定日が過ぎてもなかなか生まれてこようとしなかったことにはじまり、寝るのが苦手だったり、人見知りをすることなどもその一部だろう。
裏を返せば、そうやって現状を維持しようとすることが私の「継続力」に繋がっているのかもしれない。

誰だって新しいことは苦手だ、という人もいるかもしれない。
けれど私の苦手意識は、そんな甘っちょろいものではない。状況が変化することで流れこんでくる膨大な情報に、思わぬ心理的なダメージを受けるようなところがあるのだ。

要するに、かなり繊細なのだろう。

自分で言うなよ、と思うかもしれない。では、誰が言ってくれるだろう。
繊細さやデリケートさは、昔から社会で揶揄やゆされるような風潮があるので微妙なところだ。
細かな部分を気にすれば「繊細だねえ」と笑われる。気圧の変化で頭痛が出れば「繊細な人は違うねえ」となじるようなことを言われる。
逆に「私は無神経な人と違って繊細なんですよ~」と、実際にはたいして繊細でもない人が言い、ちょっとした笑いのネタにするような場面もある。

個人差があって大小さまざまだが、他人の繊細さを揶揄するものではない。それを揶揄するというのは、人の心をからかっているようなものだ。
世のなかの「本当に繊細な人」は、そのあたりをなかなか理解してもらえず、からかわれるので言い出せもせず、それぞれに生きづらさを感じているのだと思う。
そして他人がそれを「甘え」や「臆病さ」だと捉えて叱咤・叱責したり、自分自身でも見ないふりをして無理を続ければ、やがて心身を壊すのだ。

***

できることなら、このままで。

そんなことを思ってみるものの、移ろい変わりゆく無常な世界は、私にとってあまりに無情で、困難なことだらけだ。



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