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13:組み合わせの夢を

4歳ごろ。
よく覚えている玩具がある。

それを使えば、そこにないものを作れた。
思い浮かべたものをカタチにして、それを使う真似ができる。
車や家、恐竜や、刀だって作れた。

アイデアをカタチにしてしまう「ブロック」である。

ブロックといっても、デンマーク生まれの有名なレゴブロックではない。
もっと大きめで、はじめからテトリスのブロックのように、いろんな形状のものが用意されているものだ。

やや厚さのあるプラスチック製で、なかは空洞。型をとって貝殻を合わせるようにして作られたのだろう、繋ぎ目があり、一箇所に空気抜きのためか、小さな穴が空いていた。色は白や黒が中心だった。
ビニール製のボールやゴム製品などと一緒に収納されていたためか、においが移っていて、使うときは少しビニールくささ、ゴムくささが漂っていたのを覚えている。
あと、定期的に拭いたりしていなかったので、薄っすらベタつき感もあった。いまなら考えられないことだが、当時はアルコール消毒など知らなかったのだ。

レゴブロックほどの自由度はないが、中心に四角く穴が空いているものもあって、そこにほかのブロックを挿しこむことで組み合わせることができるようになっていた。
丸い黄色のブロックの中心に白い棒状のブロックを挿せば、鍔がついて小刀にもなる。もう片方にも丸いブロックを着ければ、タイヤのようになる。
アイデア次第で、いろいろなものが作れるというわけだ。

***

幼い私には、わりと欲しいものがあったと思う。
とはいえ、当然ながらその要求がすべて叶えられるわけはない。

そこで活躍したのがこのブロックだった。
テレビで見て、憧れたものを自分なりにカタチにしてみる。
その通りのものはできなくても、小さな達成感はあったのだろう。

SNSで他者を拒絶する「ブロック」ではなく、
可能性を探り、行き詰まりを解除するための「ブロック」である。

「ないものは創る」という基礎が、このころに培われたんじゃなかろうか。

***

ブロックとは異なるが、1995年にスーパーファミコンで発売された『RPGツクール』も、この延長線上にあった。

このソフトでは、あらかじめ収録されているグラフィックを使い、ゲーム作りをする。

たとえば、水を表現する絵がなければ、それらしく見える青い床を代用するなど、工夫が必要だった。工夫できなければそのシーンを表現できない。
青い床をそのシーン以外で使用せず、そこだけで使う。
効果音で波音を入れて「ここは海辺です」と言い張るのだ。

ちょっと無理がある水辺(想定)のシーン / RPGツクール SUPER DANTE

思えば、アイデアをどうカタチにするかというのも、このソフトの醍醐味だった。
制限のあるなかで、なにを使いどんな工夫をするか。
友人が思わぬ使い方をしていると「やられた!」と思うのである。

ちなみに私の愉快な友人は「黒いテーブル」の絵を「鉄板焼きの鉄板」に見立てていた。
彼が考えていたのは「究極の豚玉お好み焼きを作るため旅に出る」という突飛な設定だった。

***

時は流れ、大人になってからも、こういった経験は活きた。

生活するうえで、なにか必要なものがあったとする。
まずはそれが、家にあるもので代用できないかを考える。
買えばすぐに手に入るものでも、まずはあるもので工夫しようとする。

仕事で必要なものがあっても、簡単に購入はしてもらえない。
あるもので工夫できないかを考える。
廃材を組み合わせて棚を作り、道具を掛ける場所を作り、デッドスペースを活かしたりもした。

仕事で人員不足が深刻な問題になる。
経営陣は人員の補充はしないという。
現状の人材でどうにかするしかない。
限界まで現場で工夫をして、難題をクリアできるようにする。

最後の例は、ちょっといかがなものかと思うが、実際そうだった。
ずっと放り出さずに取り組めたのは
「ないものは創る」の精神が培われていたからだと思う。

***

幼い日のブロック遊びから培われてきた私の性質。

「いまあるもの」で「どうにかしようとする」

この性質を読み解くと、もうひとつわかることがあった。
可能性を高めるためには、準備が相当に重要だということである。

私は、なにかをはじめる前に
「いまあるもの」を最大限、増やしておこうとする傾向があった。
それはほとんど無意識に、あとで困らないように、と考えていたのだ。
徹底的に準備をして、整理もする。
取り掛かる前に整理をしておかないと気が済まないのは、どんな札を持っているのか、頭に入れておかなければすぐに使えないからだろう。

困れば、そのときに追加すればいいようなものだ。
しかし私に、その選択は向いていない。

はじめたあとで
「いまあるもの」で「どうにかしようとする」
からである。

のちの可能性を広げるために、私は「準備」に力を入れていたのだ。
大人になって自分の性質を読み解いたことで、わかったことだ。

私は行き詰まったときに、外から解決策を持ってくるのではない。
いつも「自分の手持ちの札」で勝負しようとするのである。
強敵が現れても、手持ちのブロックを組み合わせた小刀で応戦していたように。まったく、往生際の悪いことだ。

***

大人になってからは、あまり物欲を感じなくなったような気がする。
電化製品のように、自分では創れない、代用できないものは不便さを解消するものとして必要だと思う。
そういったもの以外の「心底惹かれた」「どうしてもこれが欲しい!」というものがほとんどない。
多少いいなと思うものがあっても少し我慢して「なくてもこれまで生きてきたし、生きていける」と片付けられてしまう。

私が本当に「欲しいもの」は、世のなかにないのかもしれない。

だからきっと、私はモノ創りを通してカタチにしようとするのだ。
いつでも「ないものは創る」の精神で。
これまでに蓄積してきた「喜怒哀楽のブロック」を組み合わせて。


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