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2.16 第5回ひだまり礼拝、無事に終わりました
おかげさまで、5回目のひだまり礼拝、無事に終わりました。
みなさま、ありがとうございます!
noteでも相互フォローのかねごん(金子敏明牧師)が、古巣の東美教会にやってきました!
ところが、今回に限って、いつも頼りにしていた常連さん2人が参加できず、不安にかられガクブル。((((´・ω・`)))
結局、参加者は8人でした。天気もよかったのに……。(天気がよかったからみんなフラフラと井の頭公園やジブリ美術館に行っちゃったんでしょうか?)
今回の式次第です↓
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聖書朗読 「山上の説教」
イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。
あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」
(マタイ5:1-12)
金子敏明牧師のメッセージ 「神様にどこで出会えるのだろう?」
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「祝福あれ」。
イエス・キリストの地上での私たち人間へのメッセージは、この「祝福あれ」というひと言で始まります。
これまでのところイエス様は、サタンとのやり取りはあるんですけれども、実際に具体的に人間に対して語りかけたのはこの「山上の説教」が最初なんですね。その最初の言葉が「祝福あれ」から始まったんです。
日本語の聖書というのは何かこう、「何々な者は幸いである」という、どこか説明的な言い回しにされているんですが、原典に忠実に「幸いあれ、貧しき者よ!」というふうに訳した方が力強いのではないかと思います。
つまりそれは “説明” ではないのです。イエス様がそう “宣言” されているのです。つまり、「いま悲しんでいる者に祝福が訪れないはずがないだろう? 決まっているじゃないか!」ということなんです。
この「幸い」というのは、単に「幸せだなー」というのではなくて、「祝福」とか「救いの喜び」、「神様から私たち人間に与えられる最上の喜び」を示しています。
「心の貧しい」というのは、これを「実際に貧しい」と訳した人もいますし、あるいは「心がもう疲れ切ってどうしようもなくてどん底にある」ということかもしれません。
いずれにしても、ここでイエス様が言われている「何々な者」というのは、人間的には非常に厳しい状況を示しています。
また「義に飢え乾く」とか「平和を実現する者は」というのは、つまり「今は神の義がここに実現していない」「今は平和とは程遠い状況にある」ということを言っているわけなんですね。信仰ゆえに迫害されている人もいる。
でも、「その人には確かに神様からの祝福がある」と言われるのです。
普通に考えれば、これらは「祝福に満ちた状況」であるとはとても言えません。けれどもこの「山上の説教」の始まり、あるいは福音書の始まり、新約聖書そのものの始まりは、「あなたは神に祝福されているんだ、だから大丈夫なんだよ」という宣言から始められなければならなかったのです。
「貧しさ」とか「悲しみ」とか、そういったもの自体は大変ひどい状況であります。こうしたものに苦しむ人々から、こうしたことは取り除かれなければならないし、そのために社会も変わっていかなければならない。でも「この厳しい状況の中だからこそ、主の恵みをあなたがたは知るのだ」、これがイエス様がおっしゃった、福音の始まりであり、そして全てだと言ってよいと思います。
前半は「厳しい状況において私たちは祝福を誰でも受ける」ということですけれども、後半7節「憐れみ深い人々」以降は、「祝福を受ける人間のありかた」が問われています。つまり「厳しい状況にあって私たちがどう生きるか」が問われています。
たとえば隣人の不条理な苦しみに心を寄せることも。
「心の清さ」も。「心の清さ」というのは、なにか「クリスチャンらしく清らかでいなさい」みたいな話ではなくて、どのような時も、つまり「私たちが苦しくて怒りに満ちていたりする時でさえ神様に心を向けている」ということ。
あるいは「憎みや争いの中で主の平和を作り出そうと勤めるがゆえにひどい目に遭う」ということ。
こうしたことも確かにキリスト者の歩みの中にもあります。
ある人が昔こういう言葉を残したそうです。
「私が貧しい人に食べ物を与えれば、“あなたは聖人のようだ” と称えられる。しかし私が “なぜ彼らには食べ物がないのだろうか?” と問えば、“お前は共産主義者だ” と言われる」。
私もそうかもしれません。私が「里親をしています」と言えば「立派な働きをされていますね」と言われますが、「どうしてこんなに社会的養護が必要な子どもが日本には多いんだ?」と発言すれば、「あいつは左翼だ」というふうに言われる。
現在のカトリックの教皇様はこういうことを言われました:
「教会は野戦病院である」。
これはカトリック教会だけの問いかけではないと思います。プロテスタント教会だってそうでなければならない。
この「山上の説教」というのは、イエス様が本当はいろんな所でした説教なのかもしれません。“山” といっても、ちょっと小高い場所で。弟子たちやいろんな人が集まって、イエス様の語られるみ言葉を熱心に聞いています。その言葉は力強い。まさに確信に満ちたものです。最後まで聞いた人たち、それはもうみんな感動と興奮の坩堝だったことでしょう。
教会もそうです。どこそこ教会には素晴らしいパイプオルガンがある。あるいは、最近、若い人たちが集まっている “なんとかチャーチ” では、素晴らしいWorship Songがあって、みんなで歌って踊って神様に賛美を捧げた。牧師の説教が素晴らしかった、感動した。素晴らしいことです。
だけど「山上の説教」が終わって、イエス様と弟子たちと群衆が山から降りてきたら、「待ってました!」とばかりに、当時、穢れているとされていた重い皮膚病を患った人がイエス様のもとに駆け寄ってきます。一気に、人々は、弟子たちは、現実に引き戻されるのです。
イエス様はこの時どんな顔をされていたでしょう? 「さあ、みんな、さっき私の言葉を聞いていたよね?」という感じで、弟子たちや人々の顔を見ていたのではないでしょうか。
あるいは「五千人の給食」という有名な奇跡物語があります。お腹をすかせた五千人の人々に、イエス様がわずかなパンと魚を分け与えたらそれが全員のお腹を満たしたという話です。これも、もうそこにいた人々も弟子たちも興奮の坩堝だったことでしょう。「どうだ、こんな奇跡を私たちの先生は起こせるんだ!」「みんなで集まればどんな奇跡だって起こせるんだ!」、そんな興奮であったことでしょう。
ところがイエス様はこの弟子たちを群衆から引き離します。「舟を出そう」と言って、そこを離れさせるのです。向こう岸へ連れて行き、そこで多くの病人たちと出会わせるのです。
弟子たちからすればどんなふうに思ったでしょうか? 「せっかく良い気分だったのに」というところでしょうか。
私もちょっとこの弟子たちの気持ちが分かるような気がします。たまにですけれども、すごく手応えのある説教ができた。ところが終わったら、「すみません、食べる物がないんですけど」という人が礼拝堂の中に入ってくる。「ああ……」という現実に引き戻されることがあります。
でも教会というのは、「そこに来て、その時に感動すればそれでいい」で終わりじゃないんです。そこからこの世の現実に目を開かれていかないと、それは教会とは言わないんです。「この世の痛み」の中で共に祈るからこそ、あるいはまた逆に「この世の痛み」が会堂の中に持ち込まれるからこそキリスト教会なんですね。
さて、今日この礼拝は「虐待をうけた人のための礼拝」です。私もこの礼拝が、懐かしい東美教会で始まったというのは、某SNSで見たときから「えっ、こういうことが始まったんだ」という関心を寄せていました。
私は “養育里親” をして8年目になります。9歳の男の子をわが家に迎えました。今年その子は17歳になります。私は一方で地域の里親会の会長をさせていただいておりますから、虐待とか、ネグレクトとか、DVとか、そういった事柄に関してはやはり敏感であります。
ただ、私が同時に気をつけなければいけないと思うのは、うちの子にしても、あるいは他の虐待をうけた子どもたちにしても、「その子、一人ひとりの心は分からない」ということなんです。というのも、「その人の痛みはその人のものである」からです。
私はこのことを、たしか神学校の牧会学という授業で聞いた覚えがあります。つまり、「あなたは何かこう分かったような “牧師” という権威を振りかざして、“そんなアナタのためにこそ、この聖書が、み言葉があるんですよ!” みたいに聖書の言葉を振りかざすようなことをしてはならないよ」と。
しかし、それでも牧師をしている中で、いろんな出会った人を傷つけてもきましたし、「その人の牧会」という技が充分にできなかったということばかりだったと思います。改めて「その人の人生がその人のもの」であるように、「心の傷も痛みもその人のもの」なのです。
私も牧師をして30年近いんですけれども、やっぱり結構いろいろ大変な仕事なんです。途中で “燃え尽き症候群” になったり、“適応障害” と診断されたこともありましたし、そんなようなことばかりでした。「里親がこれ以上続けられるんだろうか?」ということを何度も自分に問うたこともありましたし。「牧師として生きることをもうやめようかな」と思ったことも幾度もありました。
ただ、30年目を迎えようかなというところで思いますことが、どうも「イエス・キリストの福音というものは、“どん底” の中でしか人の心には響いてこないみたいだな」ということなんです。
イエス様のもとに集まってきた人々というのは、余裕のある人たちではありませんでした。そういう彼らに向けた第一声が「祝福あれ」だったんです。つまり「苦しい中でこそ、福音はあなたがたの心に刺さっていく、あなたがたを救っていくのだ」という宣言です。これは私たちにとっては「え?」と思うかもしれない。でもこのことは私たちにとっての “慰め” であり、“励まし” であり。そして、「そういう宣言をされるイエス・キリストを私たちは信じて付いて行っていいんじゃないかな」と。
今日ここに集まった皆さんお一人おひとりの、これまでの人生のことはもちろん私は分かりません。ただ私はキリストにあるものとして、ここにいるお一人おひとりの心に呼びかけたい。この「祝福あれ」というイエス・キリストの言葉を信じてみませんか、この言葉にこの身を預けていきませんか、この宣言に答えてみませんか。文句を言いながらでもいいんです。ノロノロとでも付いて行ってみませんか。
この社会には、ひどい有り様があります。
私が住んでいる茨城県では、私が里子を迎えたとき、その子は “一時保護所” から来たんですが、その時は県内には “一時保護所” は2か所しかありませんでした。8年の間に3か所増設されました。それでもいつも一杯です。「一時保護所の順番待ち」という状況なのです。“一時保護所” の役割が果たせていません。
県内の “児童養護施設” もいつも一杯です。なので、保護された子どもが、まず “一時保護所” ではなく、私のような里親のところに最初に預けられるという、どうも順番が逆になっているという現実があります。
また、遠い国では、ミサイルが飛び交う中で、多くの子どもたちが食べるものも無く、また、いのちが奪われたりもしています。こういう状況がいつになったら改善されるかということは分かりません。
そしてまた私たち一人ひとりの受けた “心の痛み”、“傷” というものが、いつ癒されるのかということも分かりません。
けれども、今は苦しくてたまらなくても、私たちの知らない先に必ず「主の祝福」が用意されています。それを信じていたいと思うんです。
いま4時ですか。なんか微妙に小腹がすいてくる時間があるんですよ、こういう時間に。(笑) そういう時にコンビニで菓子パンとか買って食べたことがあるんですよ。すると午後6時から夕飯がおいしく食べられるようになるんです。
神様がくださる素晴らしい祝福、「おいしいご飯」というものが、私たちの人生の必要な場面でちゃんと用意されています。
でも私たちはいろんなことが苦しいからということで、「別にそれ私、手を突っ込まなくてもいいよね」「知らなくてもいいよね」というほうに心が奪われてしまう。
もちろん私たちは心の問題を抱えていたら、人によっては投薬治療も必要だし、あるいはメンタルのためのセラピーも必要だし、それらはもちろん私たちの回復や生きることに必要なことでもあります。
でも同時に私たちには「聖書のみ言葉」、「祈ること」、「神様の前で静まる」ということが必要なのです。そして「神様に信頼していく」ということが必要なのです。
今朝、私、出会った言葉なんですけれども、「“救い” とは私たちの過去が変えられること」というメッセージでした。
私たちに起きた出来事、過去の出来事というものは変えることはできません。それは私たちの心を深く傷つけ、また私たちの心にもいろんな形で今も重荷を負わせています。
皆さん、昔、見たことないかな、『ベスト・キッド』っていう映画。いじめられっ子の高校生が日系人に空手を教わって、空手大会で自分をいじめていた “コブラ会” という道場のいじめっ子に決勝戦で勝つという話なんですけど。
これの続編ドラマがNetflixで出たんですよ。タイトルがズバリ『コブラ会』。あの決勝戦で闘ったいじめられっ子といじめっ子が、同じ俳優で。いじめられっ子のほうは過去にいじめられた子に散々言われたことが今でもやっぱりどこか傷があるし。いじめっ子のほうは散々いじめていた彼に決勝戦で負けたことが今でも、50歳くらいのオッサンになってもまだその傷が残っている。
そういう傷を私たちは持っています。それは変えることができない。
でも私たちが神と共に歩む中で、いつか神様が私たちに「私たちの過去を捉え直す場所」というのを必ず備えてくださるはずです、神様の救いは私たちの過去を必ず変えてくださいます。それこそが私たちに用意されている祝福です。この用意されている祝福を心から待ち望む者でありたいと思います。
かねごん、また来てください!
次回は私を感動で泣かせてみてください!
これは私からの挑戦状です。(・∀・)