多様性と配慮
今のnoteのイベント?で「多様性」があったので。
日頃少し思ってることを書き連ねてみます…
「私は多様性を認めます」
この言葉、なんか違和感が拭えない…
ここで言われてる「多様性」って、性的少数者とか(ほとんどの場合)なのかなって。
でもそれって個体の違う人間同士ならいて当然だから、わざわざ少数派の人を大衆の面前に晒して、「この人たちは少数派だが私は理解があるから認める」って言うことになんの意味があるんだろう。
理解があることをアピールしたいエゴに見える
ズボンとスカート
最近、学校の制服の男女の差がなくなってきている。ズボンとスカートが選べるのは大事だと思う。
じゃあ、選べて良かったね!解決!で済むのか。そんなことはないのかなと思ってる。
例えば男子がスカートをはいて学校に行ったとき。そうしたら「そういう目」で見られることはまず避けられないことだと思う。それがいいことか悪いことかさておいても、話題には確実に上せるはずだと思う。それが結局負担になって、制服の選択制は形骸化してしまう事態も予想できるのが恐ろしい。
「多様性を認めて配慮」をした結果として効果はあるのか。見て取れる、すぐ分かる策を取って、それがどうなるのか。もっと根深い、文化とかそういう次元から変わらないと表面しか変わらない。
表面が変わっていくといずれ綻ぶ。
認識だけしよう、変な意味じゃなくてね
結局どうしてこうなったのかは分からない。
長い歴史の中で勝手に形成されてきたものかも。
じゃあどうやって生きたらいいんだろう。
生き苦しい世の中になっていくのだろうか。
よく分からないし、この問題に詳しいわけでもないけど、「認識だけする」のは大事かなと思う。
他人の情報を知った後に、勝手に自分の中で評価を下してしまいがちだけど。そこで評価を下さないで、その人の情報そのものを記憶しておく方が大事なのかなって。自分と違うものが分からないから自分の土俵で判断したいのはわかるけど、そこで良い悪い、多い少ないの評価を下さないと生きていくのに楽になるんじゃないかなと。
他人と比べるのはナンセンスに感じてしまう
評価を下さないで情報そのものを理解しておけば、相手がどんな人であれ、そこに自分の意思推察が入らなければ、他人にその情報を「変な意味じゃなくてね」なんて付けずに伝えられる。理論上はね。
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