連作小説「栞」 ‐ 3冊目・記憶 -
ずっと探している絵本がある。
暗い紫色の表紙、主人公は魔女見習い、割と分厚めのページ数。幼い頃、母にうんざりされるくらい毎週繰り返し図書館で借りていた愛読書。そのはずが、憶えていることはたったそれだけ。タイトルはおろか、どんな内容だったかも定かではない。むしろ“魔女見習い”という主人公の設定すら怪しい。それでも、亜希のちいさな手を引きながら絵本コーナーの前に立つ度に探してしまうのだ。あの本が読みたい。大好きだった、あの本が読みたい。
「亜希ちゃん、選んできてくださいな」
暑さと緊張でじっとりと汗が滲む娘の手のひらをぎゅっぎゅっと握り、さぁあちらへお行きなさいと合図を送る。自宅の最寄りからは離れた方の市立図書館、夏休み前の平日14時、動物や草花の飾り切りで彩られた【えほん】の棚。小学生のお兄ちゃんお姉ちゃんはまだおらず、亜希と同年齢くらいの子供たちがほんの数名。亜希ちゃーん、あーきちゃーん。何度声を掛けてやっても繋いだ左手を意地でも離そうとしない人見知りと頑固さは、確実に尚之譲りだ。
「いらないならもう帰る?おうちにあるご本だけでいい?」
むっと唇を結び地面を睨みつけ無言で不満を表現する、そのイヤな仕草も。ふーっと長く息を吐き、つい先ほど窓口で返却したばかりの『アンガーマネジメント入門』とやらに書かれていた言葉を必死に脳内で呼び起こした。6秒で怒りは鎮まります。アドレナリン分泌のピークは6秒です。
「ママ、亜希ちゃんと一緒に新しいご本が読みたいなぁ」
7秒後に覗き込んで目を合わせた私の顔は、きちんと笑えているのだろうか。たっぷりと水分を帯びた琥珀色の瞳に映る顔は、目の奥は、この子からいつもどんな風に見えているのだろうか。
「・・・いっしょがいい」
「うん?一緒がいいね?」
いっしょがいい、もう一度繰り返した亜希の左手が私の右手をクッと引っ張った。選ぶからあの棚まで着いて来い、ということだ。6秒経って鎮まった怒りが一瞬で再燃しても尚アンガーマネジメントは有効か、あの本の内容はもう思い出せそうにない。
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「だからね、やっぱり習い事に通わせたいの。個人で取り組むピアノとかお習字じゃなくって、プールとか体操とか、お友達ができそうなもの。亜希も来年5歳だしそろそろ社交性をつけなきゃ。この先、困るのはあの子でしょう?」
たいして味わってる風でもなく淡々と食事を運びながら、ふーん・うーん・んー、と尚之から挟まれた数パターンの相槌にはどれも合意の色が含まれなかった。
「言ってもまだ4歳だし、別に焦らなくてもいいんじゃない?来年から幼稚園に通えば自然と身につくだろ」
数年に及んだ不妊治療の末ようやく授かった一人娘の成長を一日でも一時間でも長く見届けるべく、3年保育と2年保育で後者を選択したのは私の意志だ。この先弟や妹を望めないであろうことも含め、尊い我が子を少しでも長く手元に置いておきたかったから。数冊の幼稚園案内を前にメリットデメリットを告げた話し合いの最後に、尚之は「キミに任せるよ」と言った。何を他人事みたいに、と思ったけれど別にどうだって良かった。産み、育てる。絶望しかけたその夢が叶えられた今、どんな雑音も到底かすんでしまうほど私は幸せに満ち足りていた。
「もちろんそうだと思うけど。でも、こんなご時世で公園も公民館もまともに行けなくて、同世代のお友達と遊んだことがほとんどない状態でハイいきなり幼稚園!頑張れ!っていうのも可哀想よ。それまでに、だから・・・」
まるで降参を表明するかのように、尚之は両手を挙げて立ち上がる。そして私に告げるのだろう。
「キミに、任せるよ」
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リビングでは尚之と私の冷戦など一切届かない彼女だけの世界で、亜希がお気に入りのテレビアニメに没頭していた。毎週日曜に放送される最新話を再生したのは、水曜日の今夜で9度目だ。朝昼晩・毎食後1回。処方箋みたくキッチリと、食後に決まって再生をねだられる。一度ハマると飽きるまで延々。確実に、私の遺伝子が生きている。
こちらの気が狂うかと思うほどに聴き慣れたエンディングテーマが終わると、すこし名残惜しそうに、そしてどこかワクワクした表情をする亜希の横顔を見るのが好きだ。また明日いつもの場所で!と約束を交わした、いつかの淡い記憶を思い出す。
「さぁ、おやすみの用意をしましょうね」
「はぶらし!えほん!」
目標の為にぐずらずパクパクと食事をしてくれる、機嫌よく進んで入眠準備に入ってくれる。大きすぎる日々の変化がアニメの恩恵なら、私の鼓膜であの曲が無限ループする被害など造作もないことだ。
歯磨きを終えた亜希が選んだのは、私が子供の頃からある懐かしいオレンジ色の絵本だった。部屋の明かりを少しだけ暗くし、枕元のナイトライトを点け、今夜も娘の健やかな成長を願ってやわらかく声を出す。
『しろくまちゃんのほっとけーき』
しろくまちゃんがお母さんとホットケーキを作る。失敗しながらも一生懸命ホットケーキを作る。言ってしまえばただそれだけの話がこれほど心に沁みる時、母になった歓びを改めて感じてどうしようもなく胸が詰まるのだ。きっと尚之には分からない。そのことが申し訳なくなってしまうほど、やはり私は幸せに満ち足りているのだと思う。6秒経っても鎮火しない怒りも、半日経てばそれすら愛おしさに変わる。苛立ちとごめんねと愛してるを何度も何度も繰り返しながら、生涯かけてアニメ以上にエンドレスリピートしながら、私もこの子と共に成長してゆくのだろう。
そんな感慨深さに浸りながら読み終わる間際、一枚の小さな紙がぱらりと布団の上に落ちた。なあにぃ。今にも眠りそうな声で亜希がふにゃりと言う。
「レシートだね」
「れ、しい、とぉ?」
お買い物をした後でお店から貰う紙よ、その返答はぽつりと飛んでしずかな夜に溶け込んだ。そうっと絵本を片付け、ナイトライトを消す前に何気なくもう一度見たそのレシートには【部門05 2,500】と記されている。何を購入したのか数字だけでは分からなかったが、一番下に描かれた店名とマークは駅前のフラワーショップのものだった。そう言えば、生花など長らく購入していない。明日の散歩で立ち寄って買ってみようか、と思案する。亜希は家中を走り回ったりもしないからきっと花を飾っても大丈夫だろう。活発さはない代わりに集中力があって落ち着いているのが、この子の長所なのだ。
「寝た?」
「寝たよ」
ルーティンのように毎晩必ずそう訊ねてくれる尚之は、やさしい人だと思う。ぬるめに淹れたハーブティーのマグカップをふたつ握り、ソファの隣に寄り添って座った。狭いよと苦笑するその顔が亜希の瞳にもやさしく映りますように、そう願ってあまやかに腕を絡ませる私は残酷な妻なのだろうか。結果的に夫婦円満に繋がるならば作為的でも打算的でもいい。幼い頃読んだあの絵本の内容は定かでなくとも「大好きだった」記憶が残り続けているように、亜希が目にした我々の姿が「愛だった」記憶を残す為ならば、私はどんな努力も厭わない。
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この作品は、生活に物語をとどける文芸誌『文活』2022年6月号に寄稿されています。今月は連載・連作2作品と、ゲスト作家による短編2作品の小説5作品を中心に、毎週さまざまなコンテンツを投稿していきます。投稿スケジュールの確認と、公開済み作品は、以下のページからごらんください。
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