連作小説「栞」 ‐ 2冊目・成果 -
テーブルに伏せたままのスマホが震えた。18時32分。おそらく、いや、ほぼ確実に夫の慎介からだろう。〈今から会社を出ます〉律儀で丁寧なその報告を待ち焦がれていたのは、いったいいつまでだったか。無心で液晶画面上の人差し指を滑らせたら、頬をポッと染めたうさぎが頭上でおおきな丸を描きながら〈りょーかい♪〉と笑った。18時37分。タイムリミットはあと1時間だ。
たとえば、複雑な模様を一針一針ミリ単位で表現する刺繍。たとえば、一切の塵をも感じさせないほどすべての網目が透き通った網戸掃除。いずれも英恵(はなえ)が今日一日全身全霊をかけて取り組んだものだ。英恵は自らが労力をかけた分だけ “ただしく” 達成感を味わえる動作を好んでいて、逆にいえば労力に見合わない動作で得られる成果を信用していない。不本意な結果は言わずもがな、反対に思いがけず容易に手に入った場合だったとしても。
その点、料理というものはなかなか厄介で、各々の工程に違った労力を要する割に完成品の見た目や味でそれが如実に現れるかといえば決してそうではない。美味しいもの=手間暇がかけられたもの、手間暇をかけたもの=美味しいもの、という図式が必ずしも成り立たないこと。その事実が非常に口惜しく理解しがたく、2年前に専業主婦になって以降もはや嫌悪に近い感情で日々夕食づくりと向き合っている。
昨晩の献立は、筍ごはん・インゲンと人参の肉巻き・新玉ねぎのポン酢サラダ・塩茹で枝豆・えのきと豆腐のお味噌汁。慎介は筍ごはんをおかわりしながら、ものの30分程でそれらをモリモリと綺麗に平らげてくれた。
「おいしい?」
制作者の義務をただしく果たせているか、英恵は問う。
「んまいよ」
一点の曇りもない笑顔で慎介が答える。
結婚前に同棲をしていた頃から口に合わない場合は正直に教えてほしいと言い続けた甲斐あって、味の濃度から食材の切り方に至るまで英恵はほぼ完璧に彼の好みを把握していた。
「今日は何が一番おいしかった?」
その好みを誤差なくアップデートするべく、またも問う。
「うーん、全部うまいけど。しいて言うなら玉ねぎかな。毎日でも食べられそう」
「・・・今、旬だから。おいしいよね」
そのちいさな絶望は英恵の心を蝕んだ。彼は決して悪くない。質問に素直に答えてくれただけなのだから。それでも、悔しかった。新玉ねぎがおいしいのは新玉ねぎそのものの実力であって、それをサラダに仕立てた英恵の労力は微々たるものだ。切る、水にさらす、水気を切る、ポン酢をかける、かつおぶしをまぶす。以上。分厚い皮を剥いで米ぬかでアク抜きをするところからスタートした筍ごはんよりも、インゲンと人参を下茹でしてから一枚一枚豚肉でくるんで焼いた肉巻きよりも。新ねぎとポン酢の味で完成された「1+1=2!」と声高に主張せんばかりのシンプルな食べ物が一番になってしまった絶望感。しかし普段から全く料理をしない慎介に、その背景を慮ってほしいと思う方が傲慢だとは重々知っている。だからこそ、英恵が抱えたちいさな絶望はより大きく膨らむ一方なのだった。
だから料理は嫌なのよ。ぶつくさと唱えながら一心不乱に網戸を磨き針仕事に邁進してしまったせいで、今日は何一つ夕食の下ごしらえが済んでいない。だが慎介の帰宅時間は迫る一方で、ほとほと困り果てながら献立の参考にしようと夕方に図書館で借りてきた料理本をパラパラとめくる。普段の思考とは真逆に位置する『ラクチンレシピ』と銘打たれたポップな表紙が何故だか目に留まったのだ。
けれど、読み進めながら次第にため息が零れた。30分で完成、煮込むだけ、まな板いらず、レンジのみでOK……まるで魅力的に思えない安直なメッセージにやはり気が滅入る。美徳のように連なる“ラクをする”工夫、そのことに惹かれない自分の方がおかしいのだろうか。私はただ、労力に相当する分の成果を求めているだけなのに。
どのページにもピンと来ないまま流し読みしていると、するりと目に飛び込んできたのは折り畳まれた一枚の長いレシートだった。前に借りた人が読んでいる途中に挟んでいたのだろう。細長い紙の内側には英恵もよく利用する駅前の大型スーパーのマークが印字され、その下には大量の食品名が羅列していた。その黒く小さな文字達をぼうっと眺めながら、英恵の脳内は無意識に自動的に他所様宅の献立を想像し始めた。
・モッツァレラチーズ
・赤パプリカ
・黄パプリカ
・ベビーリーフ
これでまずはサラダ。彩りが綺麗。
・牛すね肉
・にんじん
・ジャガイモ
・ブロッコリー
・にんにく
・トマト缶
・生クリーム
・赤ワイン
難しいけれど、ビーフシチューもしくは赤ワイン煮込み。ただの牛肉じゃなくて牛すね肉を購入してるあたりに特別な日なのでは、と予想してすこし口元が綻ぶ。きっと丁寧に食事を拵える人なのだろう。どことなく同志の気配を感じて嬉しくなったのはそこまでで、調理に部類されない残りの品目に英恵の思考は一時停止した。
・パックご飯3つ入り×2
・お茶漬けの素
・親子丼、牛丼(レトルト)
・白粥、たまご粥(レトルト)
裏切られたーーー?いや、違う。勝手にそう感じてしまった後ですぐ思い直す。そもそも“この本”を借りている時点で、裏切りも何もないのだ。もしかして今の私と同じように、この人も何か悩んでいたのではないだろうか。作りたいのに気が乗らない、作ったところで気が晴れない。しかし、毎夜訪れる食事の時間はどうしたって待ってはくれない。日々ちいさな絶望を感じながらそれでも粛々と義務を果たすレシートの向こう側の同志に、そして全国に数多存在するであろう仲間達に、英恵は思わず鼻の奥がツンとなった。あなたは独りじゃない、その心強さは専業主婦の一番の支えなのだ。
ふと時計を見遣るとタイムリミットまであと30分しかない。いいだろう。『ラクチンレシピ』に相応しい30分ジャストの労力とやらを、試してやろうじゃないか。
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「なにこれ?新メニュー?」
予想時間通りに帰宅した慎介が、いそいそとビールを開けながら問う。
「鶏肉のトマト煮だよ。カチャトーラ、っていうイタリア料理」
食卓にそのままドーンと乗せた鍋からは湯気が舞っている。今夜の献立はカチャトーラ・カリッと焼いたガーリックバゲット・そして“毎日でも食べられる”新玉ねぎのポン酢サラダ。
「へえ、んまそ」
「今日借りてきた料理本に載ってたの。鶏肉を皮目から焼いてトマト缶でぐつぐつ煮込むだけで簡単に出来るんだよ。カチャトーラ、は猟師風って意味なんだって」
「んまいな!」
説明を聴いているのかいないのか。けれど、一点の曇りもない笑顔で慎介は言った。
成果だ、と英恵はじんわり思う。今日はこのまま何が一番美味しかったかなんて訊かないでおこう。幸せそうにスプーンを次々と運ぶその笑顔もまた、自らが求めたひとつの成果に違いない。そのただしい事実を噛み締めながら味わうあたたかな食事が、優しく深く、心身にすべり落ちてゆく。
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この作品は、生活に物語をとどける文芸誌『文活』2022年5月号に寄稿されています。今月は連載・連作2作品と、ゲスト作家による短編作品の小説3作品を中心に、毎週さまざまなコンテンツを投稿していきます。投稿スケジュールの確認と、公開済み作品は、以下のページからごらんください。
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