はなび
何も考えずに、空っぽで過ごす。
人間は空っぽの方がいい。空っぽだと魂の声が響き易い。
「生」「老」「病」「死」・・・という四苦があるけれど、空っぽだとこんなものどうでもよくなる。
それは「流れるまま」というわけじゃなくて、つまり・・・「覚悟」が出来るということ。
「覚悟」が出来ると怖れるものは何もなくなる。魂の響きのまま。こういう人を「覚者」という。魂とつながっている。
魂は何でも知ってる。何でもわかっていて・・・わかっているから、あなたのすべてを愛している。すべてを「天意(あい)」で包んでる。
魂にありがとう。
魂が何かを思ってくれたおかげで、わたしは人間として産まれてきた。そして人間として生きていける。よかった。
話は変わるけれど、最近・・・まるで、社会全体が魔法にでもかかったように感じるのは、わたしだけだろうか。
ある理由があって、しかたなしにテレビを観ているわたしだが・・・とても不思議な感じがしている。何かに・・・あるいは何処かに引き寄せられるような雰囲気。
あるいは、吸い寄せられる・・・と言うか・・・それは直線的なエネルギー・・・砂浜でやったロケット花火が、最後にヒューって消えていく、あの感じ。
昔の歌の文句じゃないけれど・・・もう、どうにも止まらない・・・みたいな。
その現象が、正しいのか間違っているのか・・・ということではなく、まさに「天の計らい」・・・で・・・何を書いているのだろう・・・自分でもよくわからない。
やがて、政府の力は地方に及ばなくなって・・・というか、もともと地方自治体は独立したものなので、たとえば、こころある指導者・・・導き手の多くいる地方自治体では地域通貨を発行して、人間味あふれた世界を創っていく・・・というような。
「円」が無くなるわけではなく、「円」は「円」として存在はするが、実質的機能は様変わりするんだろう。
そしてそれは・・・そんなに遠い未来の話しではなく・・・気がつくと・・・「国家」というものが消えていて、人々は自主的な横のつながりの中で生活を楽しんでいる・・・というようなイメージが、わたしの中には広がっている。
遠い遠い昔。まだ国家というものが無かった頃、人々は「和」の内にいた。
どんな争いごとも「和」の内にあるので、仲に立つ人格者・・・長老の助言で誰もが納得できた。
ましてや紛争になどに拡大するはずもなかった。
まだ、直線的な欲望が生まれる以前のことだが・・・。
人々はどこで曲がり角を間違えたんだろう。
たぶん・・・「原因」を見失ったとき。「結果」しか見えなくなったとき・・・だとわたしは思っている。
「結果」を「結果」で隠そうとする人間は操りやすい。「結果」を積み重ねて、積み重ねて、さらに積み重ねて・・・ヒューっと、花火のように消えてゆく。
「原因」は最初の入り口。「結果」は出口。けれど出口は次の「結果」への入り口でもある。だから次の「結果」を探して・・・つまり出口を探して、そして入り口に出る。
いくつもいくつも出口の入り口を通ってきたので・・・最初の入り口がわからなくなった。
こういう時は上から眺めればいい。ダンジョンを俯瞰しみればいい。それは常識を解体すること。そしたらホントの入り口が見つかる。
そしてホントの入り口は魂の世界につながっていることがわかる。「原因」の世界とは魂の世界。何故なら、この世は目に見えない世界から生み出されたのだから。
見えない世界の、見えない自分が見えた時、人は覚者に一歩近づく。
(2013年7月6日 記)