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2011年3月11日は仙台にいました。①

次女が生まれたのは、2011年3月25日(金)でした。東日本大震災から2週間後に生まれてきました。二人目は里帰り出産を選択していたから1月下旬から実家の仙台で過ごしていました。予定日は3月18日の金曜日でした。3月9日の検診ではとても順調でもしかするとその週末に生まれるかもしれないとも言われ、3月10日に買い物のついでに両親と上の子でおいしいものを食べたり必要なものを購入してめいいっぱいの食材を購入して家路につきました。当時実父は週4回の営業の仕事をしていたので3月11日は朝から仕事に出かけていきました。


あの日の14時46分

あの日の14時46分は実家のこたつでお昼寝していました。そろそろということもあり、のんびり過ごしていました。金曜日は書道があるのですが実母も気が気じゃない様子でその日はおうちで過ごしていました。

そして、、、。

14時46分

起き上がれないほどの揺れ。見たことのない電線。庭の砂利が踊っている。

物干しざおが揺さぶられて落ちる音。突然映らなくなったテレビ。

こたつテーブルごと動く。

少しだけ揺れがおさまり、庭に裸足ででる。

雪がちらついた3月11日。寒いことなど忘れて外へ飛び出す。

座っていると感じる揺れ。だけどさっきより動ける。

長女に後から聞いた話ですが、私が庭に裸足で外に出た途端キャーキャーと悲鳴をあげて泣いたママをみて背中をさすったことを。全く覚えていません。当時長女は2歳8か月でした。

消防車やパトカーのサイレンが鳴り響き、夜になってもなり続けました。

水道も電気もガスもとまって、仕事に言っていた実父が無事に帰宅できたことは奇跡だと感じました。



震度3と震度4

身体に感じる揺れが収まらないけれども、物置になる灯油ストーブをだして暖をとりながらごはんの支度をして簡易ながらも食事ができたことも有り難く感じました。3月10日に買い物に行ってその日のうちにほとんど下ごしらえをしていたからすぐに食べることができました。


暗くなる前に晩御飯をたべて。

3月だというのに雪が降る寒さは真冬並みに寒く、洋服を重ね、ホッカイロを貼り凌ぎました。夜は懐中電灯とろうそくで明かりがわりにして。布団を敷き詰めてリビングでみんなで就寝。


翌朝は湧き水を汲みに

実父と長女が台車で何往復もしてお風呂に水をためて。それをトイレに使ったり、手洗いにしたり。電気もガスも水道もない生活が3日間続きました。


被害状況を知ったのは3月15日でした。

震災から4日目の朝。衝撃すぎる被害状況を目の当たりにして涙が止まりませんでした。場所を知っているだけにことばが見つからない状態で、胸が苦しくなりました。3月18日病院から電話があり検診へ行きました。もうすぐ生まれそうだった次女は元の位置に戻り、まだ生まれそうにない状態になっていました。いつも揺れている感じで、落ち着くことができない状況。買い物した食料品がそろそろなくなりかけた3月20日、実家から歩いて3キロのところにあるカワチまで歩いていく途中、バイパスで消防隊員や警察の方に体調を心配され少しだけおしゃべりできたことが今でも印象に残っています。3時間待って一家族ひとかごで1商品につき1つ20分の買い物という制限の中、新生児のおむつを買うのか2歳児のおむつを買うのかの選択に5分悩み、新生児用を購入。これがきっかけて長女は残りのおむつ3枚を残し、トイレトレーニングを始めました。行きたくなったら教えてね。懐中電灯で足元を照らしながら。3日でおむつが外れた奇跡のトイレトレーニングになりました。

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この写真は随分大きくなってからのふたり。

あの日の記憶は今でも鮮明に覚えています。震源地から遠く離れた場所でも震度7を体感したことをずいぶん経ってから地元の新聞によって知りました。


何がいつ起こるかわからない。

何のために働いてどんなことにお金を使うのか。


10年前の出来事とともに振り返ります。②は、また次の話へ。




最後まで読んでくださりありがとうございました。




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