なにも視えない瞬間

「そう」でしかない、ということ
いま、があるだけなのだということ

価値について。

ひとが倖せで在るということ
そのあるがままの由縁について探求し、そしてそのために自分が出来ること
いつも何気なく天から与えられてきたテーマを貫き、生きてきた
生きていた。

気が付いたらそれはあまり一般的ではなかったようだ。

けれど、自分にとっては生まれてこの方、、
いや、生まれてくるときから決まっていて
「そう」生きてきた。

存在の、三次元のchaosを垣間見て
生命の着地点をちょっと見失いかけて
時間を費やした

ひとつところに打ち込み、貫くことを手放している時間を

意味のないような
価値のないような

模索しているような

そんな瞬間

子ども達の生命の育み
学びの場、おとなも子供も
じぶんの興味を開き味わう学びの場を設け、
生き、学び、暮らす、
境界なく堪能すること、関わりあい調和して
そこに在ること

そんな場創りを目指していた

そしたら斜め後ろから想像を超えた課題がやってきた

一番は、共同想像のパートナーシップのこと
自分としては、【 いままでのやり方を超える 】
が、テーマだと感じて

小さい頃にした設定(誰にも気づかれずに世界に貢献している)を超える時だと感じて

じぶんなりに違いをうもうと
試みてきた。

生きる、ということ
ひとについてあらゆる角度から確かめ深め
しごととして体験し、関わり
はい次、はい次、
はいこっち
と、迷ったり考えたりする間も要さないほどの勢いで
夢中にこなし生きてきた、全方位に開きながら。

感覚を思いっきりひらき
生命を与えて。

動けず、食べられず
天地さえ不確かに感じられ
ここ、この瞬間にしかあれない

ともすると、生きているのか死んでいるのか
定かでないような
そんな営みの瞬間を積み重ねた

子ども達がいたから
それでも容赦なく移ろい流れる営みがそこにあるから
ひとまず、
それでも全力で「たのしむこと」を
子ども達への生命の営みの授業時間を
動かない、ままならない身体をおして

試みに手をかけながら
子ども達に伝えながら

ひとつ前の、取り組みの収束を取り逃しかけてもがきながら
歩んできた。
歩んでいる。

「ながら」

って、当たり前なのかもしれない。

それまでだったら、やれていたしやっていた。

でも、アレ以降は
すべての在りようが  変わってしまったのだ。

「ながら」なんて出来る構造に残念ながらなっていない

スピリチュアルな力、エネルギーが最大限にひらかれ
いまに与えられてしまっているのだ
すでに、5%の自我の、エゴの選択を超えて。

夏をおえるとき、いま

正直まだ先がなにも視えないような
そんな瞬間を生きている

そんな表現はすこし
マイナスっぽくも感じられるけれど

じぶんとしては、人生の営みのあたりまえ、な感覚だ

道のない道を
いつも歩いてきたから
切り拓きつづけ創造し続けている
そんな風に積み重ねてきたから

淡々といまに生きると
必ず次の音、生命のテーマがはじまってきた。

それはいつも想像をこえるpowerfulさで
わたしを包んだ。

生命を、powerfulさを
じぶん自身を受け入れ歩む覚悟

そして、

「受け取ること」が次のステージ、課題だと感じている。

とにかく今は、いったん整えきること。
立ち止まって、息を、営みを、整え治すこと。
まず、あたりまえの暮らしをとりもどしきること。

平和な日本にあっては、大概あたりまえであることが
わたしにとっては、我が家にとっては「かけがえのないこと」になっていたから。
生命をあやうく失いかけてしまっていたから。

てきとー≪直感≫になんとなく≪シンクロ≫のすすめ
やさしい地球の歩き方
無条件の愛をいきる術

いまでしかないこと
「そう」でしかないこと

いのちは、存在はよろこぶためでしかないことを
伝える、現す、
まず「そう」在る

そして、、、これから。

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