誤解される淋しさとは

人に対して何かを抱くとき、どこからどんな風に想うことだろう。。

これまで生きてきた中で体験したことは、あまり一般的ではなく、なかなか人と共通することが少なかったと思う。

人の在り方、身体の鍛錬と探求から、生命の深遠を何度となくくぐり抜けてきたりもした。

設定が、前提がそんな、『現実は物語より奇なり』であったためか、本当に現実でも不思議な出来事に遭遇することが多かった、おかげ(?)さまで。。


ひとのこと、ひとの体験ひとの人生、ひとが感じていることを判断しようと思えば、語ろうと思えばいくらでも出来るかもしれない。

ただ私は、ひとがひとのことをアレコレ言っている場面に遭遇し、それを快く思えたことがあまりなく、好きではないと感じてきた。

美しいと感じられることが少なかった。

そして、自分が感じている、人のこと社会のことを、同じ切り口で、同じ目線、瞳で見、そして語らえる人と出逢えることを心待ちにしていたきらいがある。

明確に描けたとき、それは現実となる。確かにそれをリアルに思い描けていたこともあって、はたして現実となった。

自分自身と、自分の宇宙と向き合い、そこに放った設定は、遂げられることが証明、検証されてゆく、そんな感じだ。

それは、「そう」設定して生きているからそうなったのかな、そもそも宇宙は世界はそうだから、だからあるがままに純粋にそう生きていられたのかどっちなのだろう。

体験、感覚、人はもちろん『わかってもらいたい』『通じるはず』『伝わってしかるべき』そんな風に感じることも多いだろうな。もちろん私もほおっておくと、そちらに傾き賭けることもある。けれどそのたびに注意深く中心を重心を取り直すことを大切にしている。

相手と自分は、違うものだから。

同じ人生、体験を生きているひとなど決して存在していないから。

だからこそ、伝えあい、聴きあい、確かめあうこと=コミュニケーションが大切で、難しく、愛おしいのだと思う。

∞     ∞     ∞

自分の主眼を整理してまとめようとは

してこなかった

ため息をつくように書いてきたけれど、少し前から「書くこと」に気づき始めることができたので、

心からの、自分らしい語り口、伝えたいことを改めて書いていきたいと思っています。

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