東日本大震災 ものづくりが心や人間関係の回復にどう作用したのか、作業療法士と振り返る
2019年3月に『復興から自立への「ものづくり」』という本を出版し、神保町ブックセンターにて「ものづくりと心のケア」というトークイベントを行いました。東北の手仕事団体と作業療法士をお招きし、ものづくりが心や人間関係の回復にどう役立ったのかを考える、という内容です。
ずっと振り返る暇がなかったのですが、先日改めて録音を聞き直したところ「みんないい話してるな……この内容、眠らせておくのはもったいないな」と感じたので、書き起こしの一部を公開したいと思います。
(※記事中の話は2019年3月時点の内容となります)
「あの人冬を越せるかしら」と心配されていた人が……
飛田:今日はお集まりいただきありがとうございます。『復興から自立への「ものづくり」』著者の飛田恵美子と申します。
簡単にこの本の説明をすると、2011年3月11日の東日本大震災後、避難所や仮設住宅をベースとして数百ものものづくりが生まれたんですね。
動機はさまざまで、「とにかく何かやることがほしい」と始まったものもあれば、「少しでも収入を得たい、仕事をつくりたい」「バラバラになってしまったコミュニティを再生したい」と始まったものもあるのですが、共通しているのはものづくりを通して立ち上がろうとしたこと。それがとても興味深いと感じ、2012年から東北に通って100近くの現場を回ってきて、その内容をまとめたのがこの本です。
取材をする中で印象深かったのが、「ものづくりをする内につくり手が元気になっていった」という話です。
震災のショックから食事も喉を通らなくなってしまった人が、ものづくりを始めたらみるみるうちに元気になって、自分が救われたからとほかの落ち込んでいる人たちを誘っていった。70代、80代の方々が新しいことを始める面白さに目覚めて震災前よりもアクティブになった。
そんな事例を聞いて、これは災害時以外にも応用できる話なんじゃないかと思ったんです。ご家族を失った方のグリーフケアであったり、うつ病や適応障害となってしまった方のリハビリであったり、高齢者の孤立や認知症予防であったり。そこにものづくりが役立てるんじゃないか、と。
これをもっと掘り下げて考えたいと思い、今回は本書で紹介した2団体の方と共に、作業療法士の中山奈保子さんをお招きした次第です。
さっそく自己紹介をしてもらいましょう。まずは友廣くんからお願いします。実は、私に「東北のものづくりを取材しないか」と提案してくれたのが友廣くんなんです。
▲神保町ブックセンターでは、東北の商品の展示販売も行っていただきました。
友廣(敬称略):一般社団法人つむぎやの友廣裕一と申します。僕は震災直後に東北に入り、3つの現場でものづくりをしてきました。ひとつは、牡鹿半島の鮎川浜で、漁師の奥さんたちと一緒に漁網の補修糸を使ってミサンガをつくるプロジェクトです。2011年4月末から始めて、ミサンガを販売して貯めたお金で弁当屋を立ち上げたんですが、2016年に土地の嵩上げにより閉店しました。
ふたつめは、牡鹿半島の牧浜で、漁協の女性たちと鹿の角を漁網の補修糸で彩った「OCICA」というアクセサリーをつくるプロジェクトです。みっつめは、地元の障害者施設で鹿革のペンケースをつくるプロジェクト。あとで詳しく話しますが、実はこれも今年終了する予定です。
震災後、自分たちと同じようにものづくりを始めた人たちがたくさんあることを知って、飛田さんに声をかけ、この本の前身となった『東北マニュファクチュール・ストーリー』というウェブマガジンを一緒に立ち上げました。
工藤(敬称略):一般社団法人あゆみの工藤賀子と申します。被災地のお母さんたちに「ふっくら布ぞうり」をつくってもらい、販売しています。この活動は、2011年8月に南三陸で布ぞうりづくりのワークショップをしたことがきっかけで始まりました。と言っても当時私はそこにはいなくて、完成したものを東京で販売しようとなったときにボランティアをしたんです。続けるうちに、気づいたら自分がプロジェクトを回す立場になっていました。
いまは東北の活動と並行して、発達障害の人や引きこもり、生活困窮に陥ってしまった人が社会との接点を持てるように、首都圏でも布ぞうりの講習会や編み手の育成を行っています。
中山(敬称略):作業療法士の中山奈保子と申します。千葉県柏市にある作業療法士を育成する学校で教師をしています。2人の子どもを持つシングルマザーでもあります。
作業療法士の資格を取ってから、病院やまちの診療所、通所施設、自治体の健康づくり教室などさまざまなところで働いてきましたが、結婚して宮城県石巻市に引っ越し、下の子が10歳のときに被災して家も車も仕事も失いました。
仕事を続ける気力も無くなってしばらくは作業療法士の仕事から離れていたんですが、被災後にたくさんの人と出会い助けてもらった経験、一緒に過ごした時間を子どもたちに記憶しておいてもらいたいという思いから、被災地の暮らしや出来事をマンガで伝えるというプロジェクトを始めたんですね。
プロジェクトを通して出会ったたくさんの方々に背中を押されて作業療法士に復帰し、いまは大学院に通って被災地の子どもの成長を追う研究をしながら、学校で作業療法士を目指す学生たちに教えています。
▲中山さんが製作したマンガ冊子『ねぇねぇしってたぁ?』
飛田:ちなみに、作業療法という言葉をざっくりとでも知っている方ってどのくらいいますか? ……お、半分くらいですね。中山さん、作業療法を知らない人に向けて、簡単な概要を教えていただけますか?
中山:まず作業とは何なのかという話ですが、人が朝起きてから夜寝るまでにすること、着替えをして、顔を洗って、料理をして、会話をして、掃除をして……といったことすべてを作業と呼んでいます。
作業療法の対象となるのは、主に病気や障害によってそれまでの暮らしが思い通りに行かなくなった人。どんな作業ができるようになればその人の暮らしが元通りとまで言わなくも、生きる目的を持ちながら生活できるだろうかというところを検討し、相談しあいながら練習、治療、訓練、環境調整を行うのが作業療法士の仕事です。
飛田:着替えや洗顔も……。本当に幅広いですね。作業の中には、レザークラフトや編み物といったいわゆる「ものづくり」も含まれるのでしょうか。
中山:もちろんです。ものづくりの用いられ方は色々あって、ひとつは手がうまく使えるようになるための訓練として。もうひとつは病気や障害で生活が一変してしまい、現実と向き合えずにいる人の気晴らしとして。また、数はあまり多くないのですが、座っていられる時間をとにかく伸ばすという、体力づくりのために用いられることもあります。
飛田:ありがとうございます。次に、東北でどんなことが起きていたのかを、現場を見てきたおふたりに聞けたらと思います。どうして復興の手段としてものづくりが選ばれたんでしょうか?
友廣:マーマメイドは、僕がボランティアのコーディネートをしていたときにたまたま出会った漁師の奥さんたちが何かをつくりたいと言っていたんですね。元気なお母さんたちだから、何もやらないことが逆にストレスになるという状態で。そのうちのひとりが昔ミサンガを趣味でつくっていて、ちょうど漁網の補修糸が流されずに残っていたから、じゃあこれでミサンガをつくろう、となったんです。
OCICAのお母さんたちは、もともと牡蠣の殻剥きの仕事をしていた人たちです。作業の後にみんなでお茶っこして、一種の交流の場になっていたそうなんですが、震災でそれがなくなって、特に単身のお年寄りの女性が孤独になっていました。
仕事もないし、支援物資が来るから買い物に行かなくても何とかなってしまって、仮設住宅から出る理由がない。ボランティアの人たちもお茶飲み会を企画してくれるんだけど、毎日お茶飲みだけしていても話題が尽きてだんだんと人が来なくなっていく。それで、若いお母さんたちから、「お姉さんたちがどんどん元気を失っていく」と相談を受けたんです。
牡蠣の殻剥きをしていたときのように、何か作業をした後にお茶をするから盛り上がる。だから共同作業できるものを探そうとなって、地元の鹿角を使ったものづくりを始めました。
工藤:ふっくら布ぞうりは、震災ですべて流されてしまった漁師さんのご家族が、布ぞうりのワークショップに参加して「上手に編めるようになったらこれを売って少しでも稼ぎをつくれないかな」と呟いたことがすべての始まりです。それを聞いた講師の方が「売れるわよ!バザーで売るからどんどんつくって!」と言って、翌週にはどっさり布が送られてきて、みんなで一所懸命つくりはじめた、と。
ほかの地域でもやってみたいという声が上がって講習会を開いたんですが、印象的だったのは陸前高田で最後にできた仮設住宅でのこと。そこの集会所はあまり使われてなくて、みなさん自分の部屋に籠もりがちになっていたんですね。でも、講習会は真冬なのに暖房がいらなくなるくらい盛り上がって、毎日布ぞうりが編まれるようになりました。
中には、旦那さんを亡くして家も流されて、周囲が「あの人冬を越せるかしら」と心配するほどふさぎ込んでいた方もいたんです。でも、布ぞうりに出会ってから製作にのめりこみ、本人も「この土台にどんな鼻緒をつけよう、どんな色合わせにしようと毎日考えているうちに、気づいたら春になっていました」と話していました。
飛田:すごいですね。ほかの方も、そういった変化があったんでしょうか。
工藤:そうですね。みなさん被災の度合いや状況がそれぞれ違うので、お互いに自分の話をしづらいんですよね。でも、みんなで布ぞうりをつくるとなると、「どうやったらそんなに綺麗に編めるの」とか「その色合わせ素敵ね」と、布ぞうりが共通の話題になるんです。それが大きかったんじゃないかな。
飛田:OCICAでもそういった変化は見られました?
友廣:僕らは製作の場を外部の人にもオープンにしていたんですよね。つむぎやに関わりのある人や興味を持ってくれた人が遊びに来てくれて、お母さんたちからOCICAのつくり方を教わって、お茶っこでお母さんたちがつくった漬物を食べて、嬉しそうに帰っていく。
あと、OCICAはパッケージにつくり手のハンコを押しているから、「私が買ったOCICA、『丸ユ』のハンコが押してありました」「それ私がつくったの、ありがとう!」と抱き合ったりして。
人が本質的に幸せを感じるのは、誰かに何かを与えてもらうときじゃなくて、自分がつくったものを差し出して喜んでもらうときなんじゃないかなと思います。自分の仕事が誰かの役に立って、嬉しそうな顔が見られて。言葉でどんなに「生きていていいんだよ」と言われるよりも、そのリアクションのほうがずっと肯定につながるというか。
飛田:「ボランティアに来たはずなのに、たくさんごちそうになってお土産ももらってしまってどうしよう」という話をよく聞きましたが、好意を素直に受け取って喜ぶことがすごく大事なときもあるんでしょうね。
ものづくりが人を癒やす理由
飛田:岩手に東北クロッシェ村という会社があるんですね。EASTLOOPという復興支援プロジェクトから立ち上がった編み物会社で、お母さんたちは毛糸メーカーのサンプル編みの仕事などをしているんですが、将来の夢は岩手に日本初のニットミュージアムをつくることだと言っていました。震災によって大事な人や故郷の風景を失い究極の状況に陥った人が、編み物を通して元気を取り戻していった過程を紹介したいと。
本当に、ものづくりには人を癒やす、元気にするという側面があると思うのですが、一体それはなぜなのでしょうか。純粋に手を動かすことが脳に良い作用をもたらすのか、完成したときに達成感を味わえるのがいいのか、人にあげて喜ばれたときの嬉しさなのか、集まって話すことがいいのか。傷ついた人の心や脳に、どの工程がどんな作用をもたらすのか、中山さん、教えていただけますか?
中山:まず、手を動かすことそのものが脳や体に良い刺激を与える、という点が挙げられます。指先って小さいのに、体の部位の中で最もたくさん脳を刺激するスイッチがあって、ものを掴むというささいな動作ひとつをとっても、脳がまんべんなく刺激されるんです。
ものを見て把握する段階では後頭葉、どれくらい腕を伸ばし、どれくらい手を広げ、どれくらいの力で掴んだらいいか、過去の記憶も照合しながら考えるときには側頭葉や頭頂葉。最終的に実行するときには前頭葉が活発化します。さらに、こうした動作を繰り返し行い力を入れたり抜いたりすることで、血流が上がり、自律神経のバランスも整います。心身の健康を左右する脳や自律神経に、ダイレクトに作用するんですね。
また、何かに没頭するということも、脳にいい影響を与えると思います。
飛田:作品が完成したときの喜びや達成感は、どう作用するのでしょうか。
中山:わかりやすいところで言うと、喜んだり達成感を味わったりすると、前頭前野が活性化します。ここが活性化すると、前向きな思考になりやすいと言われています。
逆に、孤独感や劣等感が強く、自分には何もできないという感覚に占領されている時期は、海馬、脳の記憶を貯蔵しているときと結びつきやすいんですね。
飛田:取材をする中で、「積み重ねてきたものがすべて無くなって、これまでの人生をすべて否定されたように感じた」という言葉を聞きました。突然何もかも失った、という経験は、人に無力感や孤独感を強く感じさせるのでしょうね。
中山:そうですね。そういう時期に、自分が手を動かすことで作品が完成したという達成感を少しでも味わい、さらにそれが人に褒められたり喜ばれたりといったコミュニケーションが加わると、辛い記憶の上に新しく嬉しい記憶が積み重なって、心を開いて人と関わろうという意欲が湧きやすくなるんじゃないかな、と思います。
飛田:編み物や縫い物をしている間は辛いことを忘れられた、という言葉もつくり手の方からよく聞いたんですが、一時的にでも忘れられる時間があるというのはやっぱりいいことなんでしょうか。それとも、逃げずに向き合ったり、悲しみを味わいきったりするほうがいいんでしょうか?
中山:人によって意見が分かれると思いますが、病院でリハビリの仕事をしていたときに、人が障害を受け止めるまでには時間が必要だ、と感じました。辛い現実と向き合う時間ばかりだと、やっぱりダメージが大きいんですね。そうした中で、昔好きだった懐かしい歌が聴こえてくると、ほっとできる。現実を受け止めるために、一時的に非現実に逃げることも大事なんじゃないかなと思います。
私自身、舞台が大好きなんですが、震災後は控えていたんですね。周りがみんな被災していて大変な中で、そんな贅沢をしたら申し訳ないと思って。でも、気仙沼で舞台があったときに、周囲の人が「行ってきなよ、行っていいんだよ」と言ってくれて。舞台を観ることができて、とても癒やされました。
あの当時って、カラフルなものがなかったんですよね。全部流されてしまって。支援物資でカラフルなおもちゃが届いたときに子どもたちがすごく喜んでいて、私も心が軽くなりました。
飛田:あ、それでいうと、震災後に生まれた製品って、カラフルなものがすごく多いんです。
工藤:瓦礫だらけで、工事もずっと続いて、まちに色が無くなってしまったんですよね。そんな中で、ふっくら布ぞうりのワークショップに行けばカラフルな布に触れるから嬉しい、と言われました。
中山:花や木々も流されてしまいましたもんね。震災からしばらく経って金木犀の香りと色に触れたとき、夢のように感じました。色は懐かしい記憶と結びついているし、さまざまな色が溢れている状態は、「自分には選択肢があるんだ」と世界を広げてくれるような気がします。
飛田:ふっくら布ぞうりは、つくり手の方が自分で色や柄を選べるんですよね。
工藤:そうですね、同じものをつくっていても自分なりの工夫を加えられるのが楽しいと言われました。最初は寄付されたTシャツを使っていましたが、いまは編み手さんたちは自分で布を選んで買ってるんです。私が日暮里で買い物を代行して、Facebookのグループページでやりとりして。最初は尻込みしていた70代の編み手さんも、いまではFacebookを使いこなしています。自分で組み合わせを考えてつくったものを誰かが買ってくれたときの喜びは、普通の内職では味わえないものだと思います。
飛田:先ほど工藤さんが「被災の度合いが違うから自分の話をしづらい」と言っていましたが、一口に被災者と言っても、家が全壊となった人、家族や友人を亡くした人、仕事を失った人、隣にいた人を救えなかった人など、状況も異なれば受け止め方も人によって異なりますよね。
「あなたよりも自分の方が辛い」と思われたり思ったりしてしまうことが怖くて、でも、一人でいるのは寂しい。そういう時期に、ものづくりは言葉を交わさず一緒に過ごす口実になったんじゃないかな、と思います。OCICAの場合はどうですか?
友廣:OCICAのお母さんたちは、「ここには笑いに来てるのよ」と言ってましたね。辛い話はしない場所という共通認識ができていました。色んな人が来るから話の種には困らなくて、涙を流すほど笑って。
でも、売上の一部を貯めたお金で豪華なランチを食べに行く機会をたまにつくっていたんですが、毎回落ち着いた頃に自然と自分のことを話す流れになって。そこで初めてその人が津波によってどんな被害を受けていたのか知る、ということがありました。
中山:私自身の実感でも、震災直後に体験を語り合うことは、よく知った人同士でも難しかったですね。お互いに辛い体験をしていることがわかるから、あえて触れないほうがいい、別のことで笑っていたほうがいいと、みんな自然とわかっていたんだと思います。
でも、一年半くらい経った頃かな、グラスの中の氷が溶けていくようなスピードで気持ちが解けて、ぽつりぽつりと自分の体験を語りだす人が増えました。同じ体験をした人同士、一緒に時間を過ごすだけで言葉なく語り合っていた、支え合っていたんじゃないかな。
飛田:自分の気持ちが整理されていくと同時に、その場や人間関係に安心感が醸成されたから話せるようになったのかもしれませんね。
中山:ものづくりの現場で起きたことを考えると、手を動かしている間に心の中をもやもやと渦巻いていたものが言葉になり、それを人に受け止めてもらえることで安心感を得て次に進めたということなのかな、と。社会と再びつながるための、重要なステップだったと思います。
支援とビジネスを両立する難しさ、状況に応じて団体のあり方を変えていく難しさ
飛田:震災後に始まった東北のものづくり団体は、最初はボランティアや支援団体の人たちが質に関係なく全部買い取りをしていて、でもその体制だと長く続かないから作品にある程度のクオリティを求めるようになって、事務局の手数料ももらうようにして……という変遷を辿ったところが多くありました。
プロジェクトを継続するためには段階に応じて団体のあり方を柔軟に変えていく必要があって、それは結構難しかったことなんじゃないかと思います。その過程で人間関係の摩擦が起きてしまった団体もあれば、逆に一定のレベルを求められることでモチベーションが上がった、という話も聞きました。OCICAではどうでしたか?
友廣:僕らは資金がなくて買い取ることができなかったから、最初から売れたら利益をシェアするという形でやってきました。いいものを一緒につくらないと売れないから、お互いに頑張ってやってきた、という感じですね。
ただ、鹿の角に切り込みを入れる作業ってめちゃくちゃ細かくて、年配のお母さんたちは最初「できない」と諦めていたんですよ。しばらくは作業を分担する形にしていました。でも、最高齢のお母さんが「やっぱり一人でつくれるようになりたい」と若いお母さんにお願いして自主練を始めて、何ヶ月かして「できた!」と持ってきたものがちょっと微妙で、「すみません」と返すと泣いてしまったりして。
そこで受け取るのが優しさではないし、品質が良くないものも売っていたらそれこそ続かないと割り切っていたけど、お母さんたちが暮らしや気持ちを取り戻すためのサポートという側面と、事業という側面を両立させる難しさはありましたね。
工藤:うちも買い取りはしていなくて、一点一点に品番をつけて、いくつ売れたからいくらとお渡ししていました。ただ、上手になれば編み代が上がる仕組みにしたんです。
初心者の方には企業さんからご支援いただいたTシャツで編んでもらって、その企業の社食などで少し安く販売するんですね。そうすると、「私が寄付したTシャツがこんな布ぞうりになるんだ!」となって、少し編み目が不揃いでもお買い上げいただけるんです。そうやって製作に慣れてぴしっと編み目が揃った布ぞうりがつくれるようになったら、正規価格で通販サイトに掲載して、そこで売れると高い編み代が入ってくると。だから、みなさん早く上達しようと頑張ってくれました。
友廣:もうひとつ、OCICAは牡蠣の養殖が再開したタイミングでお母さんたちが元の仕事に戻って、つくり手が3人に減ったんですね。それまではつむぎやのスタッフが現地に駐在して生産や品質の管理などの仕事をしていたんですが、規模が縮小するとなると、スタッフを置くのは難しくなる。それで話し合って、メールの使い方を覚えてもらって、これらの業務をお母さんたちにやってもらうことにしました。結構大変で、移行するのに半年くらいかかったかな。運営するコストが下がれば、低空飛行で続けることができるんですよね。
飛田:支援とビジネスを両立させること、状況に応じて仕組みを変えていくことに悩まれていた代表の方って多くて、取材時に「ほかの団体ってどうされているんですか?」と聞かれることが何度かありました。深刻な人間関係のトラブルに発展してしまったところもあって……。みなさん、すごく難易度の高いことに、手探りで挑戦されていたという印象があります。
作業療法の場合は、目標設定ってどうしているんですか?
中山:基本はお医者さまからの処方に沿って作業を組み立てていくんですが、まずはいまどのあたりの回復段階なのかを慎重に精査します。急性期なのか、回復期なのか、社会生活に復帰する手前なのか。そして、それに応じた目標を立てていくんですね。
飛田:心に傷を負った人の回復過程というのは、一般的にはどういう過程を減るものなんでしょうか。
中山:災害の後はPTSDなどに苦しまれる方が多いのですが、まずはショックですね。その次に、何でもできる、試してみたいと万能感を感じる時期が来るんですが、その後また喪失感がやってきます。それを繰り返して徐々に回復に向かっていくと、昔から言われています……が。
飛田:が?
中山:やっぱりそんなに教科書通りには行かないものですよね。一人ひとりスピードも違いますし、先ほど言ったどこの期にも所属しない踊り場のような時期に長く立ち止まってしまう人もいます。それに、何を目指すかも人それぞれ。壊れた自分の暮らしのピースを拾い集めて一つずつ元の絵に戻していこうとする人もいれば、新しい絵を描こうとする人もいます。心の回復過程って本当にさまざまですね。
飛田:結局は一人ひとりをちゃんと見ていくことが大事なんだと思いますが、いまおっしゃっていただいたような知識を支援する側が持っているだけで防げる摩擦もあるのかな、と思いました。被災した方がすごくやる気を見せていたので、ボランティアの方がさまざまな人に協力を依頼して必要な機材や人材を揃えたけど、やっぱりやりたくないと言われて困ってしまった……という話も聞いたので。
発達障害特有のこだわりが、布ぞうりづくりに活きる
飛田:工藤さんは最初に、ふっくら布ぞうりは首都圏でも活動を始めたとおっしゃっていましたね。詳しく教えていただけますか?
工藤:活動を続ける中で、発達障害とうつの症状を抱えた妹さんを持つ方から、「被災地に限らず、この活動を必要とする人はいると思う」と言われたんです。ものをつくることで社会との接点を見つけられる人は絶対にいるはずだ、と。それで、妹さんの住む神奈川の平塚でチームをつくったら、もうドハマリしちゃって。
妹さんは発達障害特有のこだわりが強く、生きづらさを抱えていたんですが、こだわりゆえにぴしっと編み目が揃った美しい布ぞうりを仕上げてくれて、すぐに通販サイトで売れるようになりました。
それまで自分を苦しめてきたこだわりが長所になったこと、自分のつくったものが誰かに求められたことは、彼女にとって天地がひっくり返るほどの喜びだったみたい。引きこもりで近場のお店にも行けないような状態だったのに、布ぞうりの材料を選ぶために日暮里まで買い出しに来てくれて。ご家族は「奇跡が起きた」と驚いていました。
飛田:すごい!
工藤:こういうことが起きるんだ、と私も感動して、2017年から自分が住んでいる世田谷でも、生活困窮者の支援をしている団体と一緒に布ぞうりのワークショップを始めました。
発達障害を抱えた方、大病をして身体が不自由になり会社勤めが難しくなった方、心身の状態が不安定な方、病気のお子さんがいる方などさまざまな事情を抱えた人が来るので、それぞれに合ったやり方、ペースで布ぞうりを編んでもらっています。
飛田:感触はどうですか?
工藤:世田谷でも同じように、不安げにされていた方がみるみる元気になっていますね。ときどき東北のおいしいものを食べる会などを地域の人も交えて行っているんですが、引きこもっていた人も普通に参加して楽しそうに話していて。そのうちのひとりが会話の流れで「実は保育士の免許を持っていて」と言ったら、おでかけ広場を運営している方が「えっ! うちいま人が足りてないんです」となって、彼女は月に数回そこで働くことになったんですよ。
毎日決まった時間に通勤するのが難しいから仕事が決まらない、とずっと悩んでいた方なんですが、月に数回の保育の仕事と自宅でできる布ぞうり製作で、うまいことマッチングして。世田谷区の社協の方も、「民間の人と一緒に何かをするとこういうことが起きるんだね」とびっくりされていました。
飛田:友人に職場でのパワハラなどでうつ病になり働けなくなってしまった人が数人いるんですが、都内の精神科は患者が多すぎて中々予約が取れず、診察の時間も短くて、基本は投薬治療だと聞きます。もちろん投薬治療は大事ですが、人間関係に躓き自信を失ってしまった人が自分を取り戻していくステップを踏める場がもっと社会にあればいいのにな、と思います。
それと、数年前に亡くなった祖母が、どんどん友達がいなくなって寂しいからと、同世代が通っている老人福祉センターに行きたいと言い出したことがあって。でも、通い始めたら一気にボケがひどくなってしまったんです。自分のことは自分でやるという人だったんですが、あれこれとお世話を受けているうちに、気持ちが受動的になってしまったのかな。
先ほど友廣くんが「人が本質的に幸せを感じるのは、誰かに喜んでもらったときなんじゃないか」と言っていたけど、本当にそう思います。
歳を取っても自分の得意なことを活かして人の役に立てる機会だったり、新しい交友関係を育める場所だったりをつくるというのも大事なことなんじゃないかなと。おばあちゃんたちは手仕事の技術は持っていても、センスが正直微妙だったり販売は苦手だったりするので、工藤さんのような人に入ってもらって(笑)。
中山さんにお聞きしたいんですが、そういった心のケアに間接的に関わることを民間で行うときに、気をつけた方がいいこと、知っておいた方がいいことはありますか?
中山:そうですね……ものをつくることって、自分のことを表現する機会になると思うんですね。だから、つくり手がある程度自由に工夫できる製品のほうが合っているかもしれません。
ただ、自由であることに恐怖を感じる方もいます。作業療法で絵を描いてもらうときも、36色の色鉛筆から好きな色を選ぶことを楽しめる人もいれば、「この色を選んで嫌われたらどうしよう」と怖がってしまう人もいらっしゃいます。そういう人には、2色か3色に絞ったほうがいいんですね。対象となる方の性格や病気と段階に合わせて、枠を設定することが大事だと思います。
工藤:世田谷の活動も、ケースワーカーの方と一緒じゃなければできません。本当に一人ひとり違いますし、日々勉強ですね。
私の夢は、この首都圏での活動を東北でも展開することなんです。仙台の荒井というエリアにアンダンチという複合施設ができたんですが、そこは、サービス付き高齢者向け住宅、デイサービス、保育園、飲食店、就労継続支援B型事業所が全部1カ所に集約されているんですね。いま、ここで時々布ぞうりのワークショップを開いているんです。荒井は復興住宅がたくさん建っているエリアで、もう一度コミュニティをつくることが必要だろうと。
それと同時に、将来的には、デイサービスやB型事業所に通っている人たちにも、布ぞうりを編んでもらえないかなと思っているんです。全部は無理でも作業の一部ならできるかもしれないし、ご家族で協力してつくってもらえるかもしれない。
東北でもさまざまな課題を持った人たちがみんなで助け合いながら布ぞうりをつくる風景がつくれたらいいなと思って、身近な世田谷でモデルケース作りをしているところです。
飛田:いいですね、実現したらぜひ取材させてください。
課題が残る、男性のコミュニティづくり
飛田:いままで話したことのほかに、何か話したいことはありますか?
友廣:じゃあひとつ。今回出てきた話って、全部女性の話ですよね。男性ってまた違う問題を抱えているなと思っていて……。東北を見ていて、女性は色んなものを失っても新しいことを取り入れられる強さがあるけど、男性は元の仕事に戻ることしか考えていなくて、男の弱さみたいなものをすごく感じていて……みなさんどう思いますか?
工藤:不思議ですよね。一度布ぞうりをつくりたいという男性がいたんですが、おばちゃんたちがわーっと喋ってみるのを見て引いてしまったみたいで、結局入りませんでした。女性ばかりのコミュニティだと入りづらいみたい。
友廣:かと言って男性だけでコミュニティをつくる、というのもあんまりないですよね。
飛田:一応私が取材した中にはいくつかあって、たとえば岩手・野田の『だらすこ工房』。「仮設の集会所はかかあ天下で男の居場所がない」と言って、山奥の工房で木工を始めたお父さんたちです。あと、『くるみかごプロジェクト』。沿岸部で被災して盛岡に避難したお父さんたちで、「知り合いがいないから友達できるかなと思って」と素直に言っていて、おぉっ!と思いましたね。
女川の『コミュニティスペースうみねこ』では、お母さんたちが元気に手仕事をしているんですが、そうするとお父さんたちが家でひとりになっちゃうから、と畑仕事を始めていました。『石巻工房』の千葉さんや『クチバシカジカ工房』の渡部さんも男性だけど、コミュニティとはちょっと違うかな。
90団体ほど取材した中で、男性が運営を行っている団体は結構ありますが、被災した男性がつくり手となっているケースは少ないし、男女混合の団体もほとんどないですね。
▲コミュニティスペースうみねこ「Papachans」が育てた潮風とうがらし
中山:男女どちらの場合でも、その人に合う作業、合う活動というのは必ずあって、それを探るヒントはその人が生きてきた歴史に潜んでいます。一家の大黒柱としての意識の強い男性は組織をまとめるような役割のほうがいいのかもしれませんし、元の生活風景の中にものづくりがあった人はスムーズにものづくりに溶け込めるのかもしれません。
友廣:コミュニティやコミュニケーションを必要とする人は女性が多くて、男性は仕事が上手くいけばさほど問題ない、ということでしょうか。
飛田:ただ、災害後はすぐに元の仕事に戻るのは難しい場合も多くて、かと言ってコミュニティに参加するのは勇気が必要で……と孤立してしまった人もいるんじゃないかな。被災地に限らず退職後に男性がアイデンティティクライシスに陥るという話はよく聞きますよね。また別途、掘り下げて考えないといけない問題かなと思います。
ひとりでも生きていける豊かな環境になったから、コミュニティづくりが必要になったという皮肉
飛田:そろそろ時間なので、最後に一言ずつお願いします。
中山:何かをつくることがスタート地点となって、人と人が交わっていき、孤独を感じて途方に暮れていた方が希望を見出す。そういった場が全国に広がっていったらいいなと、改めて感じました。ありがとうございました。
工藤:東日本大震災の支援からプロジェクトが始まって、お母さんたちが技術を培って、販売を通して人脈ができて。それを社会に還元しながら、また東北の発展につなげていけたらと思っています。いまの編み手さんたちが編み手を育成する側になって、また新たな目標を持ってという循環を生み出しながら、細く長く続けていけたらと思っています。
友廣:最初にちらっと話したんですけど、いまOCICAというプロジェクトを畳む準備をしていて。僕らは出会ったお母さんたちの笑顔が増えることを目指して一緒にプロジェクトを進めてきて、OCICAは僕らとお母さんたちとの個別解なんですよね。
だから違う人を取り入れてやっていくのはちょっと違うし、お母さんたちの状況が変わってプロジェクトが必要なくなったから閉じるのはとても自然なことだと捉えているんです。東北でたくさん生まれたプロジェクトがどう終了していったのかを、ネガティブな形ではなく追うのも大事なことかなと思っています。
それと、都会でも被災地でも、コミュニケーションの断絶が起きるのはある意味「ひとりでも生きていける」環境があるからだと思うんですよね。
震災後に支援物資がたくさん集まったのは本当にありがたいことだったけど、これがなかったらみんな畑を耕したり、海や川に釣りに行ったり、あるものをかき集めてみんなで分けたりしたんじゃないかと感じました。生きるために何とかしないとというエネルギーを、外からの親切で奪ってしまったという側面があるんじゃないか、と。
それはいまも同じで、復興住宅や公営住宅で孤立が問題となっているのは、お金さえあればコミュニケーションを取らなくても生きていけてしまうから。昔はいろんなものが不足していたから、きっと補い合うしかなかったんですよね。「醤油貸してください」とか。
なまじ豊かになってインフラが整って助け合わなくても生きていけるようになったから、僕らみたいな外部の人がコミュニティづくりをしないといけなくなって……そこに皮肉というか矛盾を感じますね。だから、僕らみたいな人はどんな風に関わるべきなのか、何が本当に必要なのかを、ちゃんと考えないといけないと思っています。
飛田:ありがとうございました。私はこれまでずっと一つの団体の軌跡を聞くということを何度も繰り返していたので、こうして複数の団体と、専門家の方と話すというのは新鮮ですごく面白かったです。
いま友廣くんが言ってくれたような話ってなかなか一つの団体の記事の中では紹介しきれないことだし、顔出しのインタビューでは書きづらいことも多いんですよね。支援のミスマッチとか、メンバーとのコミュニケーションとか、下手に書くとその人のいまの交友関係に亀裂が入ってしまうから。今回のように、テーマに沿って掘り下げていくということに、ライターとして取り組んでいきたいなと思いました。みなさん、今日はありがとうございました。
*『復興から自立への「ものづくり」』は、小学館のサイトから試し読みできます。