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【いまさらレビュー】映画:アステロイド・シティ(2023年、アメリカ)
予備知識ゼロで観た映画『アステロイド・シティ』が非常に興味深い作品でした。今回も備忘録代わりにレビューを残しておきたいと思います、
第76回カンヌ国際映画祭コンペティション部門出品作。映画のレビューサイトでは常に評価が分かれており。天の邪鬼としては、そんなところにも興味をそそられます。
おはなし
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まず、複雑な入れ子の構造を理解しなくてはならない。一番大きな枠組みはテレビ番組。その中で舞台『アステロイドシティ』の劇作家と 主演男優のステージがあり、さらにストーリーの大筋は舞台『アステロイドシティ』の中で繰り広げられるすったもんだの群像劇。吉本新喜劇をテレビで見るようなものかとも思ったが、不意に各階層がつながったりするのでややこしい。この時点で“もうダメ!”という人もいるようだ。
舞台『アステロイドシティ』の中での話。場所は架空の都市・アステロイドシティ。砂漠の真ん中の田舎町だ。ここで天才少年に贈られるジュニアスターゲイザー賞の授与式が開かれるため、これまた個性的な面々が集まる。その中の1人が本作の主人公ともいえる戦場カメラマンのオーギー。息子のウッドロウが賞の受賞者なのだ。
授賞式の最中、衆人監視のもと、おちゃめなエイリアンが町の象徴である隕石を盗んでいく。オーギーがそれをパチリ。大騒ぎとなり町は軍に封鎖される。そんな閉じた状況で、同じく受賞者の母として町に来ていた女優のミッジ・キャンベルとオーギーが不思議に急接近。一方、天才少年たちは驚愕の言葉遊びに興じ、時間を潰す。
やがて少年たちにより情報封鎖が破られ、エイリアンの存在がバラされると、なし崩し的に封鎖は解除。中断した授賞式が再開されるがその時、再びエイリアンが現れ隕石を返却する。そして封鎖は継続へ。
そんなストーリーの合間にところどころ、テレビ番組の司会者が登場し解説を入れたり、劇作家とオーギー役の役者とのやり取りが挿入される。オーギーには妻が死んだことを子供たちに伝えられなかったという背景や、意味不明な行動(コンロで手を焼く)があったりする。役者としても理解に苦しむ役柄だ。役者は劇作家に詰め寄る。劇作家はそのままでいいと告げる。
さらに別場面が挿入。俳優学校のレクチャーシーンだ。「眠らなければ目覚めることはない」という禅問答のような結論が導かれる。
「目覚め」のキーワードと呼応するように、舞台『アステロイドシティ』のストーリーが再開。いつの間にか封鎖は解除され、寝過ごしたオーギーを残して、授賞式に集まった人たちは去っていた。ミッジもいない。オーギーは子供たちとともに帰路につく。残ったのは元通りの赤い砂に囲まれた田舎町とサボテンと野鳥だけだった。
監督は「グランド・ブダペスト・ホテル」のウェス・アンダーソン。オーギー役はジェイソン・シュワルツマン。ミッジ役としてスカーレット・ヨハンソン、オーギーの父役でトム・ハンクス、エイリアン役(?)でジェフ・ゴールドブラム、俳優学校の教師としてウィレム・デフォーが出演している。
冒頭でも触れたが入れ子構造になっており、舞台『アステロイドシティ』のストーリーのみを追っても全体像は見えてこない。また、あらゆるところに小ネタが散りばめられている。そんなん知るか!とアレルギー反応を示して放り出してしまうと、評価が星1個になってしまうのもうなずける。
舞台装置としてのアステロイドシティ
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舞台『アステロイドシティ』のビジュアルイメージは強烈だ。色彩は赤めのパステル調LUTで統一。ひたすら乾ききった赤い砂に囲まれた小さな町を、一本道がど〜んと貫いている。そして設備や建物は一見して平面的、つまりハリボテである。リアリティを追求・表現した現代的な映画空間とは、だいぶ方向性が違うが、もちろん意図して作り込まれたものに違いない。
1950年代、ネバダの核実験ではマネキンを置いた架空の町を建設したとの話もある。『アステロイド・シティ』では、近くで原爆実験のど〜んという音とともにキノコ雲が上がっていた。アステロイドシティが作り物の町、架空の物語のための舞台装置であることは疑いようがない。
現実空間と偽物との境界線がよくわからなくなるという点においては、フィリップKディック『地図にない街』『父さんに似たもの』『にせもの』etc、星新一『地球から来た男』などを連想させる。
もうひとつ、映画『アステロイド・シティ』の大枠がテレビ番組だったことを思い出そう。テレビというメディアは、現在でもとかく作り物に満ちている。テレビ業界はバラエティーはもちろん、ニュースやドキュメンタリーだってヤラセを織り交ぜ、映像を都合よくつなげて大衆の目を引こうとする。悪人に仕立て上げて炎上させるなんて容易いことだ。
つまり、テレビというリアルぶった虚構の中で、劇作家が「作り物」を想像し、アステロイドシティという舞台装置で一風変わった群像劇を大真面目に展開させる。まとめてもよくわからない。なんじゃこりゃ。
そもそも、偽物の偽物としてのリアリティってどういうこと?
ここで監督の非常に特異な視点と、パラノイアックなはしゃぎぶりがうかがい知れる。観客は怒るかもしれないが、作り手は面白がってやっている(たぶん)。
1950年代、アメリカってどんなとこ?
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1950年代のアメリカという時代設定に注目している人も多い。
オーギーと短期的にいい仲になるミッジ・キャンベルの存在は、マリリン・モンローなのだそうだ。浴槽でぐったりとする(※舞台のけいこ)ミッジの下には、なにやら薬物が散らばっている。なるほどだ。モンローは、1950年代以降にセックスシンボルとしてもてはやされた女優であり、薬物中毒であったことも知られている。
一方のオーギーには、ジェイムズ・ディーンへのオマージュが隠されているそうである(※見た目はだいぶ違う)。ディーンはかつてアクターズスタジオでメソッド演技法などを学んだという。メソッド演技法とは、演じる人物の内面を理解することでキャラに厚みやリアリティを加えるというものらしい。演技論を繰り広げる劇作家とオーギーのやり取りには、そんなところが見え隠れする。
さらに、唐突なカーチェイスは赤狩りか。前項でも触れたが、1950年代以降、ネバダでは核実験が行われている。ついでに、墜落した宇宙人が運び込まれたとされるエリア51もネバダにある。また、自動販売機による土地売買は、先住民との間の暗い歴史を連想させる。とにかく古きアメリカ、50年代に通じる小ネタ・アイテム・伏線には事欠かない。というか他に気づかれていないものも山ほどあるのではないか。
映画の中ですべてがネガティブな意味を含んでいるとは言わないが、シニカルな笑いに転化させている点には注目しておきたい。実際に笑えるかどうかは置くとして。
ちなみに、映画『アステロイド・シティ』の評価とは直接関係ないけど、映画の表現法は無限にあっていいと思う。嬉しいときに他所んちの窓ガラスを割ってもいいだろう。寂しいときにカメラのシャッターを切ってもいいだろう。悲しいときにトマトジュースを飲んでもいいだろう。泣いたり、笑ったり、叫んだりでは、わかりやすいがつまらない。(※持論)
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いずれにせよ、一風変わった映画がお好きな方は一度、ご覧になってみてはいかがだろうか。もちろん手法や世界観に拒否反応を示す方がたくさんいらっしゃることを理解した上でだけど。