本とは一体、なんだろうか。
私にとって、あなたにとって、あの人にとって。
きっと、人の数だけ答えがある。
私の場合は、本を読むとは、娯楽の一つ。
映画、サーカス、音楽鑑賞、ゲーム、テレビ、スポーツ観戦、キャンプやコンサート、そんな仲間の一つと思っている。
時間潰しと言っても良いくらい、少しでも暇な時間を意識すれば、何かを読みたくなる。
そして私の思う「本」「読書」とは、活字を読む行為だと思っている。そこには文芸や哲学書も、雑誌、コミックも図鑑も辞書も学習参考書も新聞紙の挟み広告も全て「読書」認定だ。
私は広辞苑を読むのが好きだ。パッと手を離して偶然開いたページの、目に止まった言葉を読むのが好きだ。
そこからまた連鎖して調べて行くのも好きで、こんな充実した余暇の過ごし方はそうそうない。
街中の看板類だって、貪り読む。
言葉の海に浸る行為、それが私の趣味の読書。
図鑑はあまり読まないが、夢中になって読む子どもの気持ちは分かるような気がする。彼らは絵の海に浸っているのかもしれない。
🔸
読書をなぜするのか。自分の内面と対話できるからというのが私の理由の一つだが、それこそずっと文字を読むのが好きで、卵焼きが好きなのと変わらない。そこに本があるから読む。特にそこに理由も目的も目標もない。
したがって、月に何冊読もうと一冊を何度も読もうと、そこに優劣はないはずだと思っている。
さらに言えば読書をする人は偉いとか思わない。前述通り、サッカーが好きな人と一生しない人がいる。キャンプ好きな人と一生キャンプをしない人がいる。読書好きな人と一生読書しない人がいる、それだけのことだ。
読書をしたから国力が上がる?否。
読書にそんな力があるはずもない。
子どもたちは野山を駆け巡り優良なタンパク質とたっぷり睡眠を摂れば良いし、本がなくても豊かな心と想像力を育むことは充分に可能だと思っている、というより相関関係にない。(なんなら読書人で倫理観が欠乏している人は多数いる、私を含め)
それに本にそこまでの効力を期待すべきでない。なぜなら人間を作り上げるのは日々の営みであるから。
現在の教育委員会主導の子どもたち向け読書推進活動などは、眉唾物とまでは言わないが良し悪し図れないものである。本を読むことを正義としたところがスタートラインであるからだ。その上彼らの言う読書には、図鑑も学参も辞典も含まないそうだ。そして「何冊読むか」どころか「何冊借りたか」の数を競うに至っては愚の骨頂である。そのような読書推進活動だからみんなが本を読まなくなるのではなかろうか。
なぜ本を読むのか。
なぜ子どもに本を読めと大人が言うのか。
本とはなんなのか。
その視点での議論があまりにもおざなりになっている気がする。
大人が子どもへの読書推進するならば、そこもぜひ深めていただきたいものだ。
🔸
私は読書好きで本好きなので、以下は私観。
本は、親からの「早く寝なさい」攻撃をされても負けずに布団の中でこっそり読んでいるくらいの、または学校の帰り道に我慢しきれなくて歩き読書してしまうくらいの、趣味であり娯楽である。
読みたくてたまらない気持ちを生活の中で必死で抑えている類のものである。
しかし同時に、娯楽の中では多少、受け手(読み手)の体力を必要とすると考える。
娯楽としては楽しいが楽では無い。
スポーツと似たところはあるかもしれない。受け身では楽しめない。自らのアグレッシブな到達しようとするアクションが不可欠で、ただ浴びているだけで官能を味わえる音楽や映像と明らかに異なる。
ただし、一度その魅力に嵌れば割とそのあとはペダルを漕がなくても進む電動自転車のように力を抜けて楽しめるようになる。
そんな娯楽だ。
だから映像や音楽は丸腰で挑めば良いが、読書はスポーツのようにまずは環境を整える必要がある。フットボールで例えればペレやサンタマラドーナ、メッシのような天才はボールを与えておけば良いからさて置き、一般的には親が教えたり地域のクラブに入ったりして体験する。体験はまずは楽しくないといけない。学校にクラブがあったり授業でルールを教わったりすることも有効だ。
私自身は前述通り「自分の内面と対峙する」この作業のため本を読むことが多いが、この読書の目的は多々あれども、楽ではない娯楽は少しでも残ってほしい、人間どんどん楽な方に自然になる修正があるのだから、それに自らストップをかけなくてはならない。
民主主義には必要なものである。
そうすると、スポーツのように読書も、本を読む環境を整えないとどんどんシュリンクしていく運命。
そのシュリンクを少しでも緩やかにするためには大きく二つ。
①まず、本に触れる環境を整える。
②そして本を読むための環境を整える。
①について。
ひとまず情報を得る権利の担保として、何が何でも図書館の存在は大きい。
現在あまりにも簡単に事が進む傾向があるが、ここは国体の維持レベルの重要事項であると思っており「司書をAI」なんて愚の骨頂。AIがやるならまだ弁護士の方が向いている。司書は人間がやる必要があることは何度でも繰り返し負けずに言い続ける。AIが司書をやって、おそらくしばらくは上手く行くのだ。その「しばらく」は5年かもしれない、50年かもしれない、もしかして100年上手く行くかもしれない。しかし、司書は書籍界のマイスタージンガー。歴史を語り継ぐ大切な仕事。ここを人間の脳でやらないのは歴史を放棄するに等しい。
焚書は序章に過ぎない、本を焼く者はやがて人間も焼くようになる、というが、書を焼くことは未来をも焼くことなのだと思う。
図書館は小さな自治体、町村レベルにも必ずあって、さらにそれらの司書は雇用が安定して人数にも余裕があることが望ましい。
国立国会図書館が蔵書の電子化を進めて一部をネット上で公開したり、千代田区立図書館が電子書籍の貸し出しを始めるなどの「電子図書館」の取り組みはオッケー。
図書館を駅ビルの中に開館もオッケー。
運営を民間に委託しカフェを併設したりは、限りなく❌寄りの三角。
特に図書館民営化は反対。全力で反対。
あまりにもコスパだのタイパだの、力いっぱい反対である。もちろん経費削減は適度に必要だし、何十年も前の公務員の傲慢怠惰は繰り返してほしくない。でもやはりきちんと予算をつけて公がやるべきだ。因みに民営化と言えば郵便も鉄道も、水道はもってのほかである。民営化していいのはこの国最大の公営団体・自民党である。
指定管理者制度は今のところ上手くいっているケースも散見されるようだ。武雄市の取り組みが取り沙汰される。多様な図書館のあり方を模索する中で様々な形の図書館があると良いし、アメリカや韓国の好例を引くのももちろん賛成だ。だがこれは長続きしないし広がりも期待できない。「多様」はまずは公でしっかり軸を担保した上で語られる方が良い。
あと、カフェとかホント好きだなおじさんは。カフェをつけて一瞬業績がアップしたとて刹那の煌めきである。本質的な問いへの答えにはカフェはなりようがない。
文字文化はそのままその地域の知識文化の合わせ鏡。
図書館は必ず自治体にあるべきだ。
書店も無いよりはある方が良い。
ナショナルチェーンはもちろん世の中に必要だが、街の本屋はもっと必要だ。子どもたちが通学途中に(店内には入らないが)書店の門構えを目の端に捕えること、この積み重ねはかなり大切だと思う。ネットでは掴みきれない。
書店は書籍業界の有効なアウトリーチの手段の一つ。ここにコスパやタイパを当てはめるべきではない。
その他、本に触れる場は多いほどよい。図書館という砦をきちんと確保してのち、自由闊達な議論をして多様な広がりのある取り組みをすべきだ。
書籍界のトリクルダウンは決して起きない。大手だけが生き残っても、さらには出版社だけが生き残っても、歴史的に眺めればそのうち誰も生き残らない。
何しろ、本の楽しさ、多様性、健全さ、それらは「たくさんあって」なんぼ、なのだ。
出版は日本語がわかる人しか主に利用しない。つまり内需がこれだけ冷え込みこのまま低下して行けばいつか成り立たなくなる。
ある意味国粋の方々は専守防衛を語るなら書籍も語らないと片手落ちではないかと思う。書籍文化はある意味で国の在り方を図れる国防的な意味を持つものだ。
そもそも文字文化を粗末にする文明はあり得ないのだし。
②に関しては、本を読まないことを人の資質の所為だけに落とし込まない。
本離れは本から離れている人が悪い訳では全くない。
読書は上述通り手軽な娯楽では無いイコールまとまった時間、そして向き合う時間が必要なものだ。
経済的余裕と時間的余裕は比例するとすれば、世の中なるべく経済的余裕を持つ人たちが多いに越したことはない。
もちろん本を買うことができる経済的余裕もなくてはならない。書籍業界は、カルティエやヴァンクリーフアーペルとかシャネルとかジュエリーアパレルブランドなどと違う。大金を叩く人が1人でたっぷり買えばよいアパレルブランドとは違い、本は富豪が1人で何万冊買っても意味がない。できうる限りたくさんの人が読まなければ意味がないのだ。本は思想だから。
本を読む経済的余裕、そして時間的余裕、さらには、精神的余裕。
これらを産み出すのは、やはり行政の役割では無いだろうか。国政の責任は重い。
文系理系の分け方
予算の付け方
人材育成
経済界
役にたつ
稼げる大学
選択と集中
日々の国会審議の中で聞かれるやり取り、日々飛び込むニュースに、人文学の首の締まる思いしかしない。
人文学の軽視、芸術の軽視、人材の軽視、そして知識の軽視。
日々の政策、国会審議を眺めると、時間的余裕を阻み金銭的余裕もブロックされ、もちろんそれにより精神的余裕も無くなって行く市民の姿を想像する。
これでは、書籍文化は先細る一方。
日本が文明国かは私には分からないが、この国が果たしてどこに向かうのか注目し続けている。そして今のところ私の暗めの予想は残念ながら当たり続けている。
🔸
本について、読書について、もう少し丁寧に議論したいものである。
私が求めるのは厚労省の浅い会議ではない。どのくらい浅いかと言うと厚労省の会議はランペドゥーサ島かと見まごうほどの浅さ加減である。
🔸
本が大好き、出版界には頑張ってほしいと誰よりも願う私だが。
だが。
同時に、ここまで来てしまっては、日本の出版界も一度滅びた方が良いのかもしれないとも思う。
自分の書店がなくなるのは身を切られるほど辛いことだけれど、第二次世界大戦で一旦ボロボロになった出版は奇跡のように復活してそこから数十年は気概のある出版人が現れた。
韓国も一度出版がリセットされその結果現在の興隆に繋がっていると思うと、
悪習とは言わないが慣習の鎖をを一度断ち切る勇気は必要なのかも。
どうなんだろうか。
書籍文化は無くしちゃいけないけれど、今の新聞も含めた界隈の決定権者は高齢の男性で概ねバブル世代のただの歴史的運の良い世代で大したアイデアも持ち得ず前例を踏襲するだけで巨額の富を手にできた人たちのため、思い切った改革ができない。(どの会議を見ても見渡す限り男の群れである)
この決定権を持つ高齢男性たちが一度、すっかり居なくなった後に、果たして何か産まれるのか。
期待したい。
図書館法第17条には「公立図書館は、入館料その他図書館資料の利用に対するいかなる対価をも徴収してはならない。」 とあり、いわゆる「図書館無料の原則」に基づいているからです。 教育基本法では、国民の教育の機会均等を謳っています。 そのため、基本的な利用のあり方が無料であることが最低要件となっています。
無料制の近代公共図書館は19世紀半ばに英米で成立した。わが国では、明治41(1908)年に東京市立日比谷図書館が開館し、明治43(1910)年には全国で374館の図書館があったが、図書館法制定以前の戦前・戦後の公共図書館の大部分は有料で、昭和25(1950)年の図書館法制定によって無料となった。そのため、図書館法制定以前の日本の公共図書館は近代公共図書館ではないと言われている。
図書館法制定後、公共図書館では、開架、移動図書館、レファレンスサービスなどが取り組まれたが、その後、読書運動や団体貸出に重点を置くようになり、利用は伸び悩んだ。昭和45(1970)年の『市民の図書館』(日本図書館協会)の出版等を契機に、貸出サービスと児童サービスに力を入れたことによって、利用が大幅に増加し、図書館数も増加して、公共図書館は発展してきた。
みなが本によって自然科学にせよ社会科学にせよ、文学にせよ、自己の経験することのできない広い世界から間接的知識を得たり、感性や知性を育むことに最大の役割がある。そのために図書館が有効に機能することが地域全体の人材育成、人間形成にとっても欠かせない。民営化が相容れないことは、直営に戻した下関の事例が歴然と示している。
日本学術会議の任命拒否問題
まず「稼げる大学」とか言って人文学を軽視し続けてきたあなたの属している自民党の政策の数々から見直してはどうか。
「稼げる大学」こと「国際卓越研究大学」に関する法が5月18日、国会で成立しました。これに対し、大学教職員や学生などからは反対の声が多くあがり、可決前に約1万8千筆の反対署名も提出されました。「稼げる大学」とは何か。日本の大学にいま何が起こり、どこへ向かおうとしているのか。「大学の自治」に詳しい、明治学院大学の石原俊教授に聞きました。
この20年間、「選択と集中」「トップダウン型のガバナンス改革」をキーワードに大学改革が進められてきました。当初は、2004年の国立大学の法人化に象徴されるような行政改革の一環でした。
第2次安倍政権で大きく変質します。下村博文・文部科学大臣(当時)の主導のもと、14 年に学校教育法を改正し、「大学の重要事項を審議する」機関であった教授会を「学長からの諮問事項を審議し意見を述べる」機関に格下げ。「大学の自治」を弱体化させ、政府が大学の研究内容や人事にまで介入するようになりました。
既視感極まりない取り組みが多数見られて、何も根本的な解決につながりそうも無い。
「街の本屋さんを元気にして、日本の文化を守る議員連盟」
この会長は、かの塩谷立氏である。(笑うところである)
自民党の諸問題、裏金や世襲、自己保身(自己保身自体は悪いことでは無いが)、そういったことから来る、ビジョンなき政策の連続が、出版界を苦しめているのだとすれば、
「街の本屋さんを元気にして日本の文化を守る議員連盟」のほとんどの議員さんが辞めることが最も「街の本屋さんを元気にする」ことに繋がるという事実は、何度も繰り返して告げて行きたい。