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集落の防衛から〝望栄〟へ

石巻市大谷川浜 木村さん 「命の道」新設に期待

 戦時中、牡鹿半島を横断する軍用道路が開削された。石巻市大谷川浜と小積浜の東西を結んだ「防衛道路」もその一つで、戦後にすたれてしまったが、現在、形を変えて道路改良が進む。大谷川浜は東日本大震災の影響で人口が減り、戦時の記憶をとどめているのは年長者で元牡鹿町長の木村富士男さん(86)らわずかだ。
 
 木村さんの記憶によると、大谷川浜に兵隊が来たのは学校に入る1―2年前の昭和17、18年ごろ。そのうち国が道路にするからと、個人所有の林も召し上げられ、突貫工事が始まった。「工事の合間を見て、山からわらわらとまきを持ってきた記憶がある」

 集落で防衛道路と呼ばれたこの道は、牡鹿町史によると、軍から請け負った業者が朝鮮半島の労働者や勤労奉仕の浜の人たちを使って開削。詳細は知らず、木村さんの周囲の人は物資を運ぶ道とか避難の道とか言っていた。

防衛道路があった場所を説明する木村さん

 木村さんの家は主に炭焼きで生計を立てていたが、戦争は身近。父親が長男だった木村さんが生まれる前、集落で最初に召集されており、それはすごい見送りの列だったらしい。木村さんの名は、父親が富士山の見える場所に居たから付けられた。

 大谷川浜に空襲警報が鳴る時もあり、防空壕を掘って避難した。負傷者は出なかったが、山すれすれに飛んできた米軍機が浜めがけて撃ってきたこともあった。その時、畑で迎え撃つ兵隊がいたが、子どもの目にも「届くわけがない」と映った。

 終戦は小学2年に当たる歳。それまで学校に来る児童は少なかった。授業といえば、オルガンで再現した空襲警報を聞き、耳と目をふさいでずきんをかぶる練習ばかりだった。

 航空隊の整備だった父親は終戦後、無事に帰ってきた。厳しい性格は変わらなかったが、食うものがなかったのか、腰が曲がったように痩せていた。戦禍が止まらない現在に木村さんは思う。「野蛮な戦争をいつまで続けるのか。人間に欲があるからなくならないのか」と。

建設中の大谷川浜小積浜トンネル。戦時の命の道が形を変えてよみがえろうとしている

 防衛道路も結局、戦時に使われなかった。町史では後に馬車道となったものの、車時代の到来でめったに歩かない道になっていったと記されている。ただ、高台に通じる道には震災の津波が集落を壊滅させた時、木村さんの妻を含めて何人かが避難した。

 震災で半島の東西を最短で結ぶ大谷川浜―小積浜間道路の重要さが増し、県がこのほど、トンネル建設を開始。「命の道」であった防衛道路に文字通り重なる区間もあり、事業の紹介動画では「望栄道路」と集落の繁栄に望みをかけている。

 「万が一の時に命だけは守られるようにしなければ」と木村さん。今、集落の人口は数えるほど。震災で出てしまった若い世代が、いつか帰ってくることを期待して道路の完成を待つ。【熊谷利勝】


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