いつまで、ただの“こども”でいてくれる?
わたしは、こども服が好き。
と、いうことに、むすめが生まれてから気づきました。
おとなのファッションも一応の興味はあるのですが、移り変わりが早すぎて、情報量も多すぎて、どちらかといえば苦手意識を持っていました。
流行りを追うことも、切り替えの苦手なわたしにはあまり向いてないと、早々に諦めてしまっています。
その点、こども服は流行りも関係なく(もちろん多少はあるのでしょうが)、どこかがおかしくてもそれはそれでかわいいね、と許される安心感があります。
選択するうえで必要な情報量も条件も、とても少ないのが、こども服。
自分がいいとおもったものを素直にいいといえる、そんな素敵なアイテムです。
そんなわけで、現在はミシンを使ったこども服作りにドハマリしています。
完成したときの高揚感や達成感がなかなかにクセになるもので、興味が移ろいやすい自分にしては長続きして、ちゃんと定着した趣味といえるレベルになってきました。
多少のアラも失敗も、手作りだからと言い訳できるのが、ハンドメイドの良いところ。
できる範囲でがんばってみたという、ひとつの成果がちゃんと手元に残るのが、とてもとても良いところです。
一度好きになったら、節操がないわたしです。
かわいらしいふりふりのプリンセス系も、ちいさな若者みたいな背伸びしたお兄さん系も、ぜんぶぜんぶ、それぞれに素晴らしい。
どんなものでも作ってみたいし、むすめにもできるだけ色んなタイプを着せてみたい。
そんな中でも、わたしは特に、男女どちらとも関係ないユニセックスデザインのこども服が好きです。
正確には、むすめにそういう服を着せることが、とてもとても大好きです。
ある日わたしは、焦げ茶色のシンプルなスボンをつくりました。
上にはなんてことないベージュのトレーナーを合わせました。
女の子も男の子もない、シンプルなこどもらしい服装です。
これを着せたときの我が子が、本当にただの、ひとりの、“こども”でしかなくて。
静かに衝撃を受けました。
この子はいま、なんて自由なんだろう、と。
泣けてくるほどしみじみと、感じたのです。
服を着るということは、周りにわかり易く自分をラベリングすることだとおもいます。
性別はもちろん、どんな雰囲気を好み、どんな行動をとる人物か、それを見る人に想像させる、ラベル。
わたしの目には、ユニセックスなこども服というのが、余計なラベルを排した、とてもとても純粋なものであるように映るのです。
このごろは、むすめも段々と自分の好みが出てきて、好きな色しか着てくれなくなってきました。
ただの“こども”でいられる期間は、本当に本当に短いのです。
この子はきっと覚えていないけど、わたしはずっと覚えていたい。
こどもという以外は何一つ決めつけていない、まっさらでかわいいあなたが、ここにいたことを。
そして願わくば、この子のゆく道が、本人にとって少しでも、心を縛るラベルの少ない自由なものであったらいいと、おもいました。
ひとに貼られたとしても、自分で貼ったとしても。
そのすべてに胸が晴れるような、そんな生き方であってほしいと思います。
おしまい。