わかった!わかったわかった!/「。」が読めない日本人
わかったぞ!
尺度「m」[メートル]は長さの単位じゃないんだ!!
「物理の単位」ではあるが、「長さの単位」ではないんだ!
長さは「知覚」すなわち「霊性」を備えるがゆえに単位化できない!
目に見えるからと言って、そのまま測ってはいけなかったんだ。
「長さ」ではなく、温度のように
「m(長度)」と言わねばならない。
つまりいかなる現物でさえ、人によって感じ方の異なる、ファジーな存在ということだ。
たしかに遠くのモノは「小さい」じゃないか。
そして逆に、極小さいモノは近くても意識からは「遠い」のだ。
あぶねー、騙されるところだった。
いや正直、長らく騙されていた。
g、グラムも「重さ」ではなく、「物理の単位」の一つなんだ!
Gは「重力加速度」じゃなくて、「物理の単位」の一つなんだ!
脳は「脳みそ」じゃなくて、「物的生体の器官」なんだ!
各臓器は「五臓六腑」じゃなくて、それぞれ「物的生体の器官」にすぎないのだ!
単位を認知するための器官は「同じ単位系」の内にはないのだ。
単位を観測するためには、より上の次元からそれを観なければいけない。
なんだ、言われてみれば当然のことではないか。
わたしはこの世、「観察可能な限りの世界」には存在しないのだ。
つまり
『わたしこそがあの世なのだ。』
「あなたこそがあの世なのだ。」
自身を含めたすべての現象が同一線上にあれば、
目の前の現象以外を見ることはできない。
「目の前の自分の背中」を永遠に見続けることしかできない。
ああ、なるほど!
これが後ろの正面か!
私にとってのわたしこそが、後ろの正面なのだ!(*ノωノ)
万物に始まりがないとはそういうことか。
例えば、円環という判断はどこまでも外からの「知覚」なのだ。
自ら円環の行列の中にあって、それを円環だと気付けるわけがない。
円環だという「自覚」は持つことができない!
ゆえに、フラットアースは正しい!🌸
アースにいる状態では、それは紛れもなくフラットなのだ!
霊性は あの世とこの世のすべてであって、
神性は この世を統べていて、
人性は この世を観て自らに自らを表わしている。
さらに言えば、この三性以外の性も無量に存在はするが、
人は人としてただ”ある”だけだから、(=もの)
人としてある内は人としてしか生きられず、(=こと)
人外になったとしても、それは人外でしかなく、(=こと)
あるいは完全に解脱したしても、それは解脱でしかない。(=こと)
ああそうか。
わたしたちは「あの世」だからこの世を天国にしたり地獄にしたりできてしまうのか
収まる
定まる
締まる
鎮まる
静まる
わたしはわたし。
おれはおれ。
最後の「〇」まる
これは終止符ではなく、自動的で独立自律的な結びの語尾なのだ。
対して、ピリオド「.」は意図的な完全な終わり.
ゆえに、そこに余韻の入り込む余地はない。
これは終わりを終わらせ切ってしまう結びの語尾、
「終止符」であり、「。」のように再び紐解くことを意図していない。
何もかも自分で初めて、自分で終わらせるというマッチポンプな救いようのない虚しさ。あぁ衆生がどこまでも空の空と喘ぐのはそのためか。
「。」を読めなくなってしまっているのか。
いや、ついさっきまで私もその1人だった、、
「今、私は私の人びとにオープンで、生き生きとして、成長しつづけ、いつも新鮮で新しくありつづけて欲しい。それは新しい類の現象、宗教性の存続である。それには何のレッテルもついていない。なぜなら、すべてのレッテルは完全な終止符だからだ。そして、私は終止符が好きではない、セミコロンでさえ好きではない。生は常に流れ続けている」ーOSHO
あぁ、OSHOよ、あなたはどうしてもう、、
円 縁
渦 宇宙
散逸構造
縮地 縮時
今は昔 昔は今
わたしたちはこの世に生きて、同時にあの世にいる
全意識生命体(あの世)の「同時並行性」:万人始祖論:万人終末論
阿吽:オウム:真言密教
「ーなれ.」 「ーまれ.」 と祈り、希うのではなく、
「ーなる。」 「ーまる。」 とただ静かに確信すること。
そういう、自即天、無我、梵我一如的な精神でなければ、
人間は、人間だけ、この世に取り残されてしまうぞ。
何をどうするもなにも、どうにかなるようになるしかないではないか。
衆生よ、これ以上をなにをどうしたいのだ。
あぁ、やっぱりよくわからないかもしれない(笑)
とりあえず、何もかも丸く収まれ。(まる)(確信)