SFはリアルの隠喩、つまりノンフィクション。この世は奇怪さの極み。
聖書はフィクションか。
仏典はフィクションか。
伝統はフィクションか。
作家はフィクションか。
テレビはフィクションか。
情報はフィクションか。
電話はフィクションか。
エアコンはフィクションか。
水道はフィクションか。
電源はフィクションか。
太陽はフィクションか。
肉体はフィクションか。
自我はフィクションか。
精神はフィクションか。
情動はフィクションか。
代謝はフィクションか。
拍動はフィクションか。
循環はフィクションか。
いざ問う、
『フィクションはフィクションか。』
『バーチャルはバーチャルか。』
―――――ここから私見—————
違うだろ、、、
ぜんぶ「ノンフィクション」な「リアル」だろ!
わたしはわたしを肯定しよう
そしてわたしの失念を肯定しよう
「わたしがわたしであるために」
その妄言を、妄信を、妄迷を、妄想を、
想像、想定、思惟可能な何もかもすべてを
現実と呼ぼう!
思うに、
われわれの妄想は「想」を脱し、着々と実行されている。
(その形は実に多様で妄りで淫らであり無配慮ではあるが)
あまり自覚されていないだけで、現に
すでに多くの人が時空を駆け巡り、
また、反重力装置の稼働下で生活している。
なのに、なぜその多くが未達成と考えられているのか、
以下の項目における正見を通して、この現象を説明しよう。
1.タイムトラベル
2.どこでもドア
3.反重力装置
4.現象の説明と概念の説明
1.タイムトラベル
これはまず、「時間」に関する理解を正さねばならない。
認識される「時」は必ず、流れであって、間ではない。
「間」は認識的感覚ではなく、算術的解釈だからだ。
流れであるということは、止まらないということであり、
定まらないということなのであって、流れの中にいる限り
その組成子(認識主体)はある方向に「進み続ける」のだ。
進む方向に時間が流れるのだから、あちこちに方向転換したとしてもそれは「一連の流れ」であって、体内の時計(肉体の進行)が惑うことは決してない。
つまり原則として、「代謝の方向が時の流れる方向」なのだ。
したがって、われわれは常にタイムトラベルの真っ只中にあって、その流れの渦中から脱することはできない。
youtubeの動画や映像の中の人は、撮影中はその先を知らずにいるわけで、また、いかなる書物であっても、筆記中の作者はその先のことは何も知らないのだ。(その際、かれらに対し、われわれは紛うことなき未来人だ。)
摂理の内で許される限りの妄想タイムトラベル的体験は、他者の創作物を「読む」「見る」ことで起こる追体験という形でとる他になく、(言うなればわれわれはこの形で過去を経験し、)
創作物の創作中の精神は、その先に待つ何者かの追経験と「重なる」ことで、造ると同時にその精神はまだ見ぬ先を経験してることになる。(この形で未来を経験するのだ。)
2.どこでもドア
1が分ればこれもほぼ同様である。
時間と空間は而二不二、分別不可能なものだからだ。
冷凍睡眠カプセルでの移動であってもそれは睡眠の延長にすぎず、
ジェット機での瞬き、馬上のうたた寝に等しい。
経験としては「夢遊病」の方がまだ奇怪であって、
また、認識者(主体)の誕生という機構の方が甚だ奇妙である。
現にわれわれはみな、どこでもドア()を少なくとも一回は通って来ているのだ。
言うなれば、どこでもドアとは新しい自我の「誕生」そのものであり、
生命の機構そのものである。
もしかしたら今朝も新しい自我がその身に宿ったかもしれないが、それは決して知り得ることではないのだ。わたしはわたしという「一連の流れ」でしかないのだから。
3.反重力装置
飛行機やヘリコプター、ドローンと言いたいところだが、
それだけでは満足されないだろう。
なので、ここで述べるのは「干拓」、つまり「揚水」だ。
虫が空気中を飛べるのはそのサイズに対しては空気が粘性を呈するからだ。
つまり、虫や鳥は飛んでいるのではなく、空を泳いでいるのだ。
かれらは空を掻いて、自らの生存の場を手にしているのだ。
これはそのまま人間の干拓事業に当てはめることができる。
干拓地において、現にわれわれは水の中に居を構え、「空に浮いている」のだ。(要は、能天気ってこと。)
ご納得いただけただろうか。
この発想の前ではUFOなんかどちらかと言えば飛行機とかの類だから面白くないじゃん、ケッ。と奴らを一蹴していただけたら幸いである。
4.現象の説明(A)と概念の説明(B)
なにかしらの事態に遭遇したとする。
A.それは時間の問題であると考える。
B.では、時間とは何かと考える。
A'.それは戯論であると考える。
B'.では、戯論とは何かと考える。
A''.それは無礙であると考える。
B''.では、無礙とは何かと考える。
お分かりいただけただろうか。
Aは事態そのものを究明しているのに対して、
Bは事態を置き去りにして、ありもしない概念に固執している。
つまり、
「○○とは何か」「何が○○か」という思考は総じて「戯れ」でしかないのだ。
例:愛とは何か。人とは何か。
何が欲しいか。何が好きか。
Bからは「新たなB」以外何も生まれない。
Bは何も救えない。問題を増やすだけである。
Bはただ悪戯にAを困らせるだけの「分らず屋」なのだ。
しかし、同時にBはAに現実(動態)を奪われた(先取られた)可哀相な存在であり、
このものこそ、砂上の楼閣、あるいは象牙の塔、蛸壺化、エレファントシンドローム、狭心症、臆病、神経症、虚無感、無力感、そして煩悩の「主」なのだ。
人の思考の内にBがあるがゆえに
「人間は自然の邪魔ばかりして、流れをめちゃくちゃにする。」
であったり、
「生きとし生けるものの中で、どうして人間ばかりが苦しむのか。」
だとか、
「自分の最大の敵は自分。」「勝つか負けるか」とかいう、
血迷った言葉の使い方を巷の人々はしてしまうのだと思う。
そしてこの思考形態こそ、
リアルをバーチャルだとか、
ノンフィクションをフィクションだとか言って
尊き現実を蔑ろにする軽薄な戯れを起こし、
人の生に欠かせない天地人の政(まつりごと)を
人間のみの倒錯し混沌とした政治や経済に貶めた因縁だと思うのだが、
この記事をここまで読んでくれた方々はそんなこと重々承知だろうから、
誠に救いようのない世界である。
もはや遺憾の念も湧かない。
しかし、これがリアル✨
つまり、人は宇宙的ユーモアを持たねばならない