動物的な、あまりに動物的な
1.環境とは自己を含めた”あり方”である。
守るものでも、支えるものでも、大切にするものでもない。外に注意を向ければ内が散漫になり、内に目を向けすぎて外が整わないようでもいけない。それならばいっそ「目」や「意」などないほうがいい。それを実践しているのがいわゆる「動物」である。
2.植物の細根と小腸の柔毛はほぼ同じ。
動物は土を持ち運べるようになった植物である。植物は動く必要がなくなった動物である。さらに、動物も植物も共に水を持ち運べるようになった水性生物である。さらに言えば、水性生物は内部を持ち運べるようになった膜である。そして、膜とは「持ち運ぶためのもの」であり、重複する大小無数の膜それぞれが作用し合うことを「運動」というのである。運動する膜は天衣無縫がゆえに運動する、即自的膜なのである。
3.多様性とは理不尽さである。
多様性は常に一定の割合で葬り去られることを前提とした在り方である。そこではみな三苦の内のどれか(あるいはすべて)を知ることになる。三苦とは優れたる苦しみ、劣れる苦しみ、過渡たる苦しみである。
いかに多様でもそれを一様であると言え。
いかに複雑でもそれを平等であると言え。
いかに非道でもそれを天道であると言え。
理不尽さは理不尽への抵抗によってのみ生ずる。
いかに不条理でもそれを条理であると言え。
不条理は上手でないことから生ずる。
強き者よ。上手であると言え。
4.アフォリズムは有閑者の道楽である。
トートロジー、オノマトペ以外に、正しい文章というものは成立しない。正しい文章とはトートロジーやオノマトペのことである。
ことわざや箴言や教訓、図式はおよそ瓦礫、ガラクタである。
5.瓦礫の我楽多、ブリコラージュの王
生物とは寄せ集めである。寄せ集めは総じて生物的である。なぜならばそれは寄せ集め「られた」からである。「られる」ことで、ものは「生まれる」のである。ゆえに生物の働きは寄せ集めること(食事・交情・感染・情報交換)を主とする。これは「生まされる」ためである。生まずとも絶えず生んでしまうのが生物である。
6.出産・垢・糞尿・咳・射精・触れ合い
「られる」ものが生物であると言った。
「集める」ものが生物であると言った。
「生む」ものが生物であると言った。
なるほど、やはり、このような愚にもつかない散文の寄せ集めを生まされる私は生物である。いや、あるいは土、糞便、水の方が私なのかもしれない。
自らを最後の預言者と言ったムハンマドは正しい。
彼が正しいがゆえに彼の言ったことは正しいのだ。
正しくあるためには最後でなければならない。
最後であるものこそが正しいのだ。
ならば、私のこの肉体の中で最も正しいのは仙骨だろう。
仙骨を正すことで、今が正され、糞尿も正されるだろうか。
いや、私に足りないのは「仙骨に正される」ことかもしれない。
最後であること。
それこそが動物的であることの真骨頂だろう。
最後性の強いお二方に捧ぐ。
・(ラストアルケミスト)ayanaさま
・「僕は最後でいいから、みんなが救われてほしいのだ。」
tomotakaさま