今日、神にあった
何を書こうにも胡散臭く思えて削除してしまうから、
いっそのこと逆に、本当にあった妄象を書き伝える。
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本日正午前、実験で使うために畑から取ってきた大量の土をほぐしながら考え事をしていた時のこと。
頭の中で、日本語を精錬してマントラ成分の濃度を高めに高めていたら、それはあらわれた。洗われて顕れて現れて表れたのを感じたように思ったような気がしたことを今でも覚えているんじゃないかという期待を拭えずにいる。
だから広く、微かに、しかし如実にそれを感じ取った、という体で話を進める。
「あれ」に対して今抱く印象としては強い順にこんな感じ
[・遭った・遇った・在った・会った・逢った]
それにあう直前、私は以下のようなことを考えていた。
いわゆる『土』の動態を正しく理解するためにはヒステリシス【履歴効果。物質の状態が、現在の条件だけでなく、過去の経路の影響を受ける現象(デジタル大辞泉)】を考慮する必要がする。
構造により影響や効果は違えど、これは経済、社会、人の性格の動態などにも言えることではないか。
さらに、一言で『土』といっても、その用途・分野によって分類の仕方は様々であり、その種類はほぼ無数に存在している。
{巌、岩、礫、砂、団粒、粘土、錯体、有機物、鉱物}
これらを正確に見分けられる人がどれだけいるだろうか。
断言しよう。小さければ小さいほどパッと見では不可能だ。
このような場合、見分けることと定義することはもはや同義であり、
それは形而上的形而下学、つまるところ「名付け」の領域である。
あなたはナニを何と呼ぶか。
何でナニをナニ以外の名で呼ばないのか。
その理由こそ、われわれが「神」と呼ぶものの働きではないのか。
ヒステリシス
これは万物に、万象に、逃れられない定めがなくはないということ。
ヒステリシス
草木は土と水と一体であり、野生の内で土を食べず、土に還らぬ物はない。
あなたはなぜ土でないか。
土はなぜ生命でないか。
生命はなぜ地球でないか。
地球はなぜ世界でないか。
世界はなぜ宇宙でないか。
宇宙はなぜ神でないか。
その理由こそ、『何』でないか。
みんな本当はわかっているのだろう。
わからないふりをしているだけで。
その方が「おもしろい」から。
何かがわかることで得られる精神状態より、
何がわからないかわからない状態で得られるモノの方が圧倒的に「多い」。そう考えて、感じ取ってのことだろう。
わかってしまったら後戻りできないということはどうもよく知っているらしい。
しかしそのようなモノはどこまでも薄く脆い。それはまるで世間一般が言うところの「生命」のように。
わたしは思う。生命のどこが脆いのだろう。
生命ほど永く、強く、柔軟で、凶暴で、狡猾で、不気味で、得体の知れないものが他にあるだろうか。脆く見せることで、それは「善良な」人々を利用している。そうは思わないか。なんせわたしがそうなのだから脆いはずがないのに、不思議だ。
花は可憐だ。子猫は可愛い。蟻は小さい。
だが、それらは人々の繊細な心よりは圧倒的に「強い」。
さて、あなたは何であって、何でないか。
それを決めよう。
どうだ、できるか。
きっと無理だろう。
できたところでしょうもないとわかっているはずだ。
それはすでに用意されたモノ:言葉を用いずには不可能だから。
さあ、ひと思いに言ってしまえ。
「わたし」にはマントラよりこぼれた落ちたガラクタ(瓦落苦多)のブリコラージュなど不要だ!不釣り合いだ!不謹慎だ!と。
物事に物事を決めさせ、否応なく活動を進めさせる働き、
それが「 」だ。
偶像など、文字のひとつでさえも与えてやるものか。
わたしは「わたし」を生きるのだ。
そうでなくてはならないとわたしが決めるのだ。
「 」には、音も、心も、気も、血の一滴さえも与えてやるまい。
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などと考えたのが正午前。
今、書いてからこれを読み返してみると、
「あなた」が私で、「わたし」が神であるかのような構成になっているではないか。
しかもまるで、ほかの何かが「神」と呼ばれることを防ぐかのように、だんだんとぼやかしていって、遂にはそれに名詞さえ与えずにそれらしい理由をつけるなんて、、
こわいこわい。
神様こわい。
お願いだから、乗っ取らないでね、やめてね。
ほんと、そういうの無理だから。
絶対にやめてね。
あ~まんじゅう怖い