私は「言葉のるつぼ」・自動化された自己の責任の所在
誰しも後になってなぜあの時あのようなことをしただろうと疑問に思うような、無我夢中で我武者羅な経験をしたことがあるだろう。
我々は{切羽詰まったとき、生命の危機に瀕したとき、強いストレス状態下に置かれたとき、習慣化され油断したとき}などには、判断に意思を挟む余地がなくなり、自己を感ずる余裕もなくなり、肉体が精神を置き去り、まるで自動化したようになる。
慌てふためき、気が動転し、我を忘れ、自動化されたとき、いかに合理的かつ思慮深い判断ができるか、その人の尊厳はそこに現れる。
しかしながら、一生命体である肉体の根本的行動原理に、その精神がどの程度干渉でき、そのプログラムを改編しうるのか不明である以上、当人にその行動の責任や正当性を問うことは不合理的で理不尽ではないのか。
時間が経てば人は変わる。その時の彼はもうどこにもいないというのに。
我々が誰かを非難し処断するとき、いったい"何"が最も不満なのだろう。その人の行為か、意図か、無知か、態度か、性格か、人格か、性向か、身形か。はたまた自己の至らなさか、不自由さか、それとも単なる暇つぶしか。
精神的に自由になるためにはまず、いかなる場合であっても何事をも責めない度量が必要だ。自己に誠実に、他者に寛容に。慣れれば自己と他者の境界線はなくなる。何者であっても終には世の理とさえ融合する。
暇つぶしに誰かを批評などすれば、いつか誰かの暇つぶしでコケにされる。暇があるなら学び、修練せよ。
{修養≒教育≒洗脳}解釈が少し違うだけ
手足が腐るまで座禅をしたという達磨
国家や思想のための献身や自爆テロ
思想なき労働者を育成するためのプログラム
幼児期の愛着形成が不可欠であることの意味
全ての人にとって「私は私」でありながら、その構成要素のほとんどがかつて「非自己」であったという事実。散逸構造的自己。置かれた環境で分子を入れ替えながらも維持される渦のような機構。
思念の私は「言葉のるつぼ」
この肉体が言う「私」は I am me.
私自身が思う「私」は It is me here.
目に見えないモノたちが語りかける。
ねぇ私をちゃんと見てよ、
私はいつもここにいるよ、
ほら、もっと、心の目を開けて。
身体は身体、私は私。