『放哉覚書ー放哉の「呵々」が意味するものー』 井上三喜夫
放哉の日記や書簡に「呵々」ということばがふんだんに挿入されていることは、よく知られている。しかし、放哉自身、この呵々について、ことさらに解説はしなかったから、それが、何を意味していたかは、いまにわからない。わからないままに、享受者は、それぞれ、挿入場所でその呵々がよく効いていると感得しているのだろう。そして、この呵々が、通用している「呵々大笑」とは似て非なるものであることだけはわかっているようである。
ふつう、呵々大笑と熟して用いられる呵々が表現するものは、ワッハハハとか、かんらかんらとか、擬声語に置きかえられる。こうした笑いかたを、人は豪傑笑いという。そうしたにおいが、放哉の呵々にまったく無いわけではないが、どうも、それが放哉のほんとうの姿ではないらしく、放哉にふさわしい擬声語は見つからない。
いったいに、豪傑笑いは、笑いとばす場合には、極めて都合のよい社交辞令の用をはたすが、そこに何か残ると、無礼千万な笑いになったり、意味のない笑いになったりする場合が多い。ひょっとすると、放哉の呵々は後者に近く、自分のバカさ加減、自分の足りなさを責める笑いかも知れない。云うなれば、こえなきこえである。自分の内部に云いきかせていることばだから、擬声語が見つからないのがあたりまえである。
もとより、ことばは、ことばが挿入された場所で、いろいろな意味に変化する。ことばは、人間が使ってはじめて声にもなるし、現実に意味をもってくるのである。ことばは生きものである。わずかに二音にすぎないが、はたして放哉は、こえなきこえの、呵々ということばを、どのような心持で用いたであろうか。その心持の中に、放哉俳句の世界があるような気がする。
まず、豪傑笑いということばから想起されるのが明治男という呼びかたである。これは、戦前派・戦中派・戦後派というような相対的な呼びかたとはちがった、独特のニューアンスがある。そのニューアンスを分析すれば、いろいろの性格的要素が出てくるであろうが、それらの中の一つの性格に、気概のある男という型がある。その気概を強調するとき、今日的に云えば、硬派という呼び方がそれである。かつては一括して国士と呼ばれた。かれらはひとしく日本への愛情を堅持した。しかし、ともすると、彼らの愛情は、日本主義宣揚のための一方的な情熱に化して、他を非として顧みない傾向があった。従って、気概は頑固さに変じ、みずから社会から脱落する者もあった。また、かれらは自己の誇りを確信する。従って、みずからの辱めに対しては死を以て応えるていの気概があった。すなわち恥を知る心があった。恥を知る心は、他を責めないで、みずからを責める心である。こうした気概を明治男は身につけていた。盖し、明治前期(二十年以前)の男の特徴の一つは、この気概だった。明治十八年生まれの放哉は、まさしく明治男のにおいがする。写真で見る肩肱張った放哉がそれである。須磨寺大師堂前の寺男の写真も、口を八の字に結び、腕を組んでいる。しかし、やや上を向いた顔は何か飄然としている。これは、ただのうそぶいた姿勢ではない。
ここで考えられることは、明治男の恥を知る心が自己に向けられたとき、相手に対しては反って寛容になるという心理である。そうした矛盾を超えようとする心持が、しばしば「呵々」という笑いで代弁される場合がある。放哉の呵々も、この類型に属するものが多い。一つの事例を撰んで、具体的に考えてみよう。
『入庵食記』大正十四年十一月二十四日の記事は、朱筆でなぐり書きされたような部分もあり、かれの興奮と沈静を読みとることができるような気がするので、そのまま全文を引用してみたい。
オカユ(芋入り)……
「山ノ絵ヲ、(吽亭子)ヱ『一句』カク事』―紙アリ
今日昼オ賽銭ヲトル人ヲ発見シテ大ニ驚キ、賽銭箱ヲ、引ッパリ上ゲ、竹ノ箸ニテ釘ヲサシ、蓋ノアカヌ事ニシタリ、アリガタシ、アリガタシ……?(盗ム人ハヤムヲ得ズ)カナ 呵々 之ニテ、ワレモ、モラワズ。人モ、モラワズ、難有ゝ
25(10日)―アスノ事也
旧の日ヲマチガヱテ居テ面白シ
アシタ、「一句」カクカナ?
北郎まだ来らず、アヽ、マタレル事ダ、
ラッキョー如何
「明日ノ一句」……
「夕陽舟を超え大松をこえ静に行く」
『夕陽大松をこえ、山をこえ静かに行く』
ドッチがよいか、北郎の悪口ヲマツ、早く、コンカナ、ヂレテ、
肺病デ(之ハウソゝ)酒呑ンデル、早ク、来ンカナ、但、酒ハ
呑ンデモ、コンドハシッカリシテル……之デ死ヌカ、一寸ワカランデ困ル。呵々
ドウモ、放哉、早死シソヲダカラ、今から戒名タノンデオキマスヨ、……ホントニ 北郎 ヒョットシテ 明日来るかも知らんな、早くこんかな―
終……寝ル。
この記事は、文体と云い、表記の方法と云い、放哉の特徴まるだしで、放哉内部のリズムのパントマイムを見るような興味がある。かれ自身も、その日の記事を結ぶにあたって、いわゆるわが心の動揺がいちおう終ったと感じたのだろうか、わざわざ行を改めて、簡明に、「終……寝ル。」と記している。孤独に住している人の寂然たる響きがある。では、この一場のパントマイムが終るまでに、どのくらいの時間が経過しただろうか、それは、この文面だけではわからない。茶碗酒をぐいのみしながらの心の動揺を、こうして文字に映しだしていっただけでも相当の時間が経過しただろう。しかもこの記事の中で、呵々が二回でている。文脈から見ると、賽銭どろぼうの件を措置したところで、かれは一息ついている。しばらく、かれは横になっていたかも知れない。また、かれは、この日、星城子と井児宛に、ハガキを書いている。その井児宛の終に、「亥ノ子がスムと寒くなりましたな、サヨナラ。」とあいさつしている。晩秋初冬の島の寒さが身にしみたのだろう。何か、夜がふけているような感じさえする。しかし、この記事の行間、飄逸の気溢れて、かれの孤影を包んでいる……。
さて、この記事の中に、呵々が二回も出ていることは、さきにも云った。一つは、賽銭どろぼうを見つけた事件に対するかれの態度を述べたところに出てくる呵々である。ただ、この記事ではっきりしないのは、賽銭どろぼうの現場をおさえたのか、あとから賽銭の盗難を知ったのか、どちらであるか不明である点である。もし、現場をおさえたのだったら、賽銭どろぼうとのやりとりが、いくらかでも記事になっていそうなものと思うけれど、それがまったくない。これは、のちにも記すが、これといって、きまった収入のない放哉は、小銭の入用な時があったにちがいあるまい。それで、この日も賽銭箱をあけて見て、たまたま盗難を知ったのではあるまいか。しかし、放哉の心の在りようから云えば、そんなことは、どちらであっても同じである。だからと言って、記事には、はっきり、「オ賽銭ヲトル人ヲ発見シテ」と、圏点まで付けてある。これはいったいどういうことなのだろうか。かれは、トルという行為とは何であるか、トル人は何かと、いちおう考えたのではなかったか。法律学を修めたかれなりの倫理があったにはちがいあるまい。しかし、要するに、蓋があいていたのは、とって下さいと言わぬばかりだ、とられぬように要心していなかった方がわるい、ということになって、「蓋ノアカヌ事ニシタ」のだ。実は、かれ自身も、始めは、オ賽銭を日々の生活費に用立てする気はなく、月の終りか、何か、まとめて出し入れするつもりだったらしいが、時には必要上、前借りするかっこうになっていたのだろう。アリガタシと云いながら?と付したり、盗ム人ハヤムヲ得ズを、カッコにくるんだり、傍線を施したりしているかっこうは、しかたのない人間を憫笑するかれの哀しみが隠すところなく出ている。そして、そこで、かれは一息ついた。その、人に目だたぬように吐いている吐息が、そこにある呵々である。かれは、人間の弱さを哀しむけれども、弱さを責めようとはしない。この吐息のような放哉の哀しみは、「放哉」という名をはずしても、だれにでもわかるものではあるまいか。それはもう、豪傑笑いどころのさわぎではない。そんな虚勢じみたものはかけらもなく、こらえていてもゝ、ほろほろこぼれる熱いゝ涙にぬれっぱなしで、かれは埒もなく泣いていたかも知れない。男泣きというやつである。へんなところに、こうして、明治男が出てくるのである。しかし、この明治男からは、決して、国をトッタリ、トラレタリスルような人間のぶざまさは感じられない。「之ニテ、ワレモ、モラワズ。」と決意し、「人モ、モラワズ、難有ゝ」と、もう、形のない空気人間に化していくのだ……。
ここで、こうした境涯をわざわざ解説するなどということは、まったくヤボと云うものだろう。むしろ、
くるりと剃ってしまった寒ン空
の、かれの句のかろさをひとりかみしめている方が、その境涯をたのしく実感できるだろう。
次に、呵々が出てくる他の一つは、北郎来訪を待つ待ち心と、かく待っているかれが、瀕死のみずからをかえりみた心とのもつれに対する呵々である。申すまでもなく、島の片隅の、庵居の日々は、わざわざ独居無言と云わなくても、無聊そのものである。まして、人一倍さびしがりやのかれである。賽銭どろぼうを見つけたり、北郎が来るというので、どんなにか心がさわいだだろうことは想像に難くない。しかし、さわぎっぱなしだったら気が狂ってしまうかも知れない。ところが、その心の動揺をパタッと沈静させる妙薬をかれを付している箇所に注意しながら、くり返し読んでいるうちに、その妙薬たる所以がわかってくるような気がする。
北郎まだ来らずと、デレテいる放哉は、ほんとうにさびしい人間だ。頑なにまで「俗」を非としたかれである。それが、こんなふうに北郎を待っているのは、ただの人恋しさというものだけではあるまい。また、俳句熱心のかれではあるが、それはたんに俳句への関心などと云うものでもあるまい。何か、わからないけれども、何かであるにはちがいあるまい。そうした何かが、放哉をさびしくしているのではあるまいか。しいて云えば、人間の中に、その生死の中で生きている限り、いろんな形をとって、さびしさはでてくる。
かれは待ちきれないで、ヒョットシテ、北郎は明日来るかも知れないと思ったりもする。しかし、一方では、その待ち心とはまったく逆に、ヒョットシテ、自分は、今にも、死ぬかも知れないと思うのだ。こんなに憔悴した自分を、かれはむしろ、北郎に見せたくなかったかも知れない。それだのに、かれは、恋人でも待っているようにデレテいるのだ。思わず、かれはぐっと酒をあほったことだろう。そして、かれは、「酒ハ呑ンデモ、コンドハシッカリシテル」と思うのだ。このコンドは、もうまったくいじらしい。いくたびか酒に失敗したかれではあるが、この場に臨んで、昔のぶざまさを責めているのだ。そして、シッカリシテイルと云いながらも、「之デ死ヌカ、一寸ワカランデ困る。」と云い切ったあと、呵々と書かずにはいられなかったのである。この笑いは、もう笑いではない。しかし、一生懸命に、笑おうとしている。かれは、あるいは、すこし、顔がその笑いにゆがんでいたかも知れない。しかし、かれは、わが生涯を、笑いでつらぬきたかったのだ。その、さびきすぎるほどにやさしい笑いを―。俳人放哉が、毅然と、ここに居る。
かれはこの日、「夕陽大松をこえ、山をこえ静かに行く」という句ができた。きっと北郎を待つまなざしが、海の遠くに据えられたときの句であろう。そして、星城子宛に、「人間此の調子と存申候」とハガキに記している。晩秋初冬の夕陽の逆光に浮きでていただろう放哉のうしろすがたは、まことくろぐろと静けさの極みだったろう。
しかし、入庵食記に記されているこの箇処は、いささか奔放な筆づかいである。夕陽の運行に見ほれる放哉と、この句を書きなぐっている興奮とのズレは、いったい何だろう。
およそ、彼の句はすぐわかるように、そのほとんどは、われの心に回って、わが脚下を見つめている。しかも、かれの代表句のほとんどがそうしたひとりに住した句である。現実社会に身を置いている者として、遠くを見、明日を思い、社会に関心を示した句は、数えるほどしかない。その中にあって、この句の焦点は遠くにある。ただ、この句は、かれが興奮しているわりには、表面的な風景の写生に終って、彼が吟った意味が歌われていない。井泉水選にも洩れている。だからと云って、かれが憧憬した夕陽の悠々たる心景が意味なかったわけではない。晩秋初冬の青空が、夕陽にそまってゆく美しさを、いまわのような気持で限りないもののように、かれは見ほれていたにちがいないのだ。そして、かれはその句を人に書いて与えようとさえしている。しかも、かれ自身、その句が、よいかよくないか、わからないで困っている状況と同じだったのではあるまいか。
とにかく、わからない何かがある。そこに、かれは、かれ自身が内包しているズレを見てとっていたのではなかったか。その直観が間髪を入れず、「呵々」と笑わずにはいられなかったのである。ひそかに、ひとりで―。
一日おいて、二十六日夜、北郎は来た。そして、三十日去っていった。
その日から五十年に近い歳月が一瞬にして過ぎた。しかし、呵々と笑うかれの笑いは、いまもなお聴こえてくる。いやいや、こんにちの状況だからこそ、かれの笑いが、身じかにきこえるのかも知れない。
かれをよしとし、かれを愛する人も、かれをよしとせず、かれを誹る人も、不思議に、かれの句に、しずかに心を寄せている。そして、かれはきのうのように呵々と笑っている。
おともないこえを、寒空にひびかせて……。
【引用元】
※『層雲』第61号第12巻(昭和48年12月号)を底本としています。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?