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『放哉の恋句』 小玉石水
さわにある髪をすきいる月夜 放哉
すばらしい浮房だ蚊がいる 〃
髪の美しさもてあましている 〃
八ツ手の月夜もある恋猫 〃
恋心四十二して穂芒 〃
など、放哉には放哉らしからぬ俳句の一群がある。一艶の濃いこれら一連の作品は、所謂世捨人の作品ではない。名利を去り、虚飾を避けて自然そのものの中に自己を流していこうとする放哉の思想や人生観からすると、これはいささか異端に属するものである。
こういった相対立する二つの面を有する作家ということでよく例に引き出されるのは、芭蕉である。芭蕉の恋句である。この恋句について芥川龍之介は大正十二年から十三年にかけて、その「芭蕉雑記」で述べている。芭蕉は、元禄という世の人情に精通し、その「恋愛を歌ったものをみれば其角さえ木強漢にみえぬことはない」といわせたほどの艶やかないくつかの恋句を作っている。芥川の例示するもののうち、連句の短句2句、長句2句を抜粋すると以下のとおりである。
手枕に細きかいなをさし入れて 芭蕉
兀げたる眉を隠すきぬぎぬ 〃
きぬぎぬやあまりか細くあでやかに 〃
よつ折の蒲団に君が丸くねて 〃
芥川はその後に続けて、
「是等の作品を作った芭蕉は近代の芭蕉崇拝者の芭蕉とはいささか異なった芭蕉である。たとえば<きぬぎぬあまりか細くあでやかに>は枯淡なる世捨人の作品ではない。菱川の浮世絵に髣髴たる女や若衆の美しさにも鋭どい感受性を震わせていた多情なる元禄びとの作品である。」
と。さらに芥川は芭蕉が「時代に孤立した」詩人ではなく、むしろ、時代の中に全精神を投入した詩人、「最も切実に時代を捉え、最も大胆に時代を描いた万葉集以後の詩人」―とまでいって賞揚している。
このような芥川の芭蕉における恋句の発見は、芭蕉をわび、さび、閑寂、無常、枯淡の詩人とみる一般の風潮に対する解釈の新らしい提起として劃期的なものであったが、それを継承させたのが小宮豊隆の研究である。小宮がそれを書いたのは今から四十六年も前の昭和八年のことであったが、今もその見解は新らしい。
「芭蕉は閑寂の詩人だといわれる。また自然の詩人だといわれる。それは正にその通りである。然しそれと同時に芭蕉は、言わば濃艶の詩人でもある。また人情も詩人でもあった。芭蕉は無数の美しい恋の句を残している。然るに、一般には芭蕉のこの方面に殆ど注意の目を向ける事がない。是は芭蕉の連句は多くの人たちから細緻に研究される事がない為であるに違いないが、然し是は芭蕉の世界を理解する上に重大な欠陥をなすものである事は、疑いをいれない。」
全くそのとおりである。
それはここで、芭蕉の俳句の方にはどんな恋句があるだろうか。手元にある井泉水の「芭蕉名句」をひもといてみよう。いくつか目についてくる。例えば、
紅梅や見ぬ恋つくる玉すだれ 芭蕉
これなどは玉すだれの影にすばらしい美人を想像しているのだ。
梅柳さぞ若衆かな女かな 芭蕉
月さびよ明智が妻の噺せん 〃
しら菊の目に立ててみる塵もなし(女の貞操) 〃
おもしろき秋の朝寝や亭主ぶり(夜遊朝寝) 〃
艶なる奴花見るや誰が歌のさま 〃
一つ家に遊女もねたりと萩の月 〃
元禄時代といっても勿論それは封建時代の最盛期。芭蕉は表面的には「女というものを避けよ」と口癖に言っている。そして、寿貞との関係を最後まで表面に出そうともしなかった。そういう時代と、それに処する芭蕉の心やりを思うてみれば、句の上においてのみ奔放であったのだろうか。その辺の手がかりは、連句というものと「三冊子」という書物の中にみつけることができる。
ます「三冊子」で芭蕉はいっている。
「むかしの句は、恋の言葉をかねて集め置き、その詞をつづり、句となして心の恋の誠を思わざるなり。今おもう所は、恋別して大切の事なり。なすにやすからず。」
万葉集を尊敬し、西行に憧れた芭蕉にして、この言や深い含蓄を含んである。そして、世に、恋なき恋句ははしたない―といわれている言葉の表徴の意味。連句において、季の座、月の座、花の座が重要である以上に恋句は連句の核心を果たす役割をもたされていた。そして、しかも、芭蕉が連句における当代随一の捌きの名手―というのは、連句の歴史において最初にして最後の類稀なる名手であったことを合わせ考えてみよう。
殊に連句の捌き手というのは誰にでもできる代物ではない。捌き手は連句のみならず、世事のあらゆることに通暁し、言葉においても感覚においても、技両やすべての知識においても最も才能豊かな人によってのみ可能なのであって、その捌きの力量が即ちその日の歌仙の出来ばえに影響するという重要な役割を荷うものであった。
芭蕉が連句において、恋の続きを作るにせよ、恋を離れるにせよ、そうした句座の流れや運びの見極めが際立って明敏正確であったともうなずかれよう。
芭蕉は主君藤堂良忠(俳号蟬吟)の急死に遭い、それから二十八才の状況までの六年間は伊勢の兄の元に寄宿していたようだが、細かい行蹟は不分明である。恐らく、トルストイの青年時代と同様に多情多感な生活を送ったことだろう。学問と恋と人生的思考と句作との修験道を試行錯誤をくりかえしつつ過ごしたであろう。この期間、「なすにやすからざる」心の恋の誠を体験し、誠の恋句、柔軟嫋々たる連句の恋句を後年定型せしめてゆく素地をつんだのではなかろうか。
芭蕉は当代の豊かなる苦労人であった。恋においても渡世の術においても。そんな面を捉えて、芥川は芭蕉を「大山師」或いは「油断のならない世間師」といっとぃるのであろうが、そうしたしたたかな芭蕉の一面をくしくも指摘したものといえる。
芥川は芭蕉の存在の意義を元禄という時代を十分かつ徹底的に捉えたといっているが、それとはとりもなさず、時代をこえてある人間そのものへと迫ろうとしたというべきである。そして、万葉以来の人間の、そして男女の激しい人間感情、恋情、愛することへの業に着目したことによって即ち人生の誠に執着したものであるということができる。
高悟還俗は誠の恋となり、往きて還るの心は愛の相関関係であって、弱い肉体に具わる無常迅速、生老離苦という思想のるつぼに却って濃艶さが燃焼するものである。
私は芥川や芭蕉を証人としてもってきて免罪符にするつもりはないが、鴨長明の「発心集」などには色欲と諸行無常との因縁話がある。瀬戸内晴美の小説「花火」の中の一編「虵」(くちなわ)などは同様なモチーフを扱ったもの。観音を彫る仏師が若い妻と性交の極地ををもってはじめて「女のなまめきの極地の座像から人間を超えた清浄が今みえてきた」と悟るもので、男女の愛のなかにさえ、はかなさ、むなしさがあることに真実の目を開こうとしたのである。
放哉が若いころから虚無思想にとりつかれていたことは疑いのない事実である。それは明治末から大正にかけての日本のインテリ層に醸成された悲しくも有為な思想である。それは漸く資本主義の隆盛とともに派生されてくる必然的な弱い、しかし良心的なる日本のオブローモフ主義(世計者)というべきものだっただろう。
現世の無常を感じ、はかない命の営みを意識的に強く感ずれば感ずるほど、愛とか恋とかから人間は遠ざかるものではなく、むしろものの妖しい美しさの中にかえってより深く潜行していこうとするものなのかもしれない。また、この世の中にする男と女が、男あるが故に女が、女あるが故に男が一期一会の愛のために命をもやすことはそれなりにはかなさの人生を十全に生きぬくことにでもなるのである。
若い放哉は激しい恋をした。そして、恋に破れた。後、新らしい別の伴侶を得たが、家庭を捨てた後も妻のことはいつまでも心の一部から消し去ることはできなかった。人生に無常と虚無とを感じとってしまって自ら孤独の渊に身を沈めていった人であっても、女性らしさ、女性のもつあわれな美しさ、女性のもつ属性、ふさふさした髪の毛、厚い乳房、白いゆびさき、女の目、子どもをつれた女、お女郎、白い足等々から目をそらすことはできなかった。また、避けることもできなかった。
今日、無常迅速を根底とする虚無思想と女性のなまめかしさに対する関心とは矛盾するものではない。ただ矛盾するようにもえるだけである。
窓あけている朝の女のしじみ売り(大正六) 放哉
灯をともし来る女の瞳(大正五) 〃
ざくろが口あけた たわけた恋だ(大正十三) 〃
わかれをいいて幌おろす白いゆびさき(〃) 〃
傘さしかけて心寄りそえる(〃) 〃
島の女のはだしではだしによりそう(〃) 〃
女と淋しい顔して温泉の村のお正月(〃) 〃
女に捨てられたうす雪の夜の街道(〃) 〃
波へ乳の辺まではいって女よ(〃) 〃
刈田のなかで仲がよい二人の顔(〃) 〃
花が咲いた顔のお湯からあがってくる(〃) 〃
桜の花のはかなさを感ずるが故にある花の美しさ。これは西行の世界である。男女のロマンチシズムにひかれる情操が、より底部の虚無につきあたり、また、虚しさの思想をつきつめてゆけば、そこに妖美なるものの無常さに遭遇する。それは、遠藤盛遠が文覚に化身してゆく過程でもあろう。
諸行無常、愛別離苦、流転常ない人生を真当なる人生と観照してきた日本の文学的伝統は「和漢朗詠集」に有名な二行詩をちりばめている。
朝に紅顔あって世路に誇れども、
夕(ゆうべ)に白骨となって郊原に朽ちぬ。
また、朱憙の絶句も戦中戦前派の人々の脳裏に強くやきついている。
少年老い易く、学鳴り難し
消耗病にとりつかれて微熱と咳に苦しんだ放哉であったが、言葉をもってする芸術家、純粋な心情の詩人であった彼は、世俗の空しさや不正義に絶望し、そういう世間に背を向けてゆこうとする自分にもまた絶句した。そういう二重構造の絶望につんのめっていった彼であったが、彼は決して自分を捨てきることはできなかった。
泥をかぶり、埃まみれになりながら、つねに自分の誇りを堅持し、自己の主体性と自恃の精神を失わなかった。弱くはあったが、一念は強く持った。それは弱い仮面をかぶった放浪者の堅固な一面である。それは、日本文学の多くの先達―西行、兼好、長明、芭蕉、良寛、一茶、二葉亭四迷、啄木、牧水、山頭火などの姿そのものである。
放哉を虚無に止揚し、孤独に徹せしめたのは、虚無思想そのものといわんより、むしろ、詩人としての素質、芸術家としての冷徹な理性の目といったほうが正しい。大いなる自然の万象を冷静な透徹する心眼をもって観照すれば、当然人事社会の虚しさに逢著する。この虚しさの認識こそ芸術の誠に近づく道である。
放哉の恋句をこのような目でみるとき、放哉の句は一きわ光彩を放ってくる。芭蕉の時代ならいざしらず、放哉の虚しさの句は、放哉の一連の恋句あるが故に、より豊かに虚しさとして光り輝くのである。私は冒頭において放哉の恋句を"放哉らしからぬ句の一群″と述べたが、実は放哉のこの恋句は、放哉らしからぬ句群どころではなく、実に放哉の真骨頂というべきものであって、芥川が芭蕉の詩人的資質をその恋句に見出していると全く同様な意味において、私も放哉の恋句に、放哉の全き詩人的資質を見出すものである。そして、放哉の虚無澄明な句は恋句あるが故に輝き、恋句は虚無の句によって深い色を加えるのである。放哉の句の永遠は、恋句と虚無性、恋句の虚無性において支えられ、両極端の傾向の句は、放哉という一つの人格によって統合され、一体となって生きつづける。
ここに美しい花がある。その美しさに感動する。しかし、さらに近づけば、造花であることを知る。そのとたん裏切られたような気分におそわれる。美しさはごまかしであった。だまされた感情は甚だしい嫌悪につながる。この気持ちの変化は、花が生きているかいないかにかかる。生きていればこそ、やがて、色もあせ散ってゆくのである。散る故に愛惜の情が動くのである。造花は散ることはない。始めから死んでいるからである。美しさとはかなさは物の表裏、「花の命は短かき」が故に愛憐の情がわく。
まさに咲く花にむつれてとぶ蝶の
うらやましくもはかなかりけり (西行)
満開のさくらよりもむしろ、散り急ぐ桜が和歌や俳句にうたわれる。いろいろな花の中で散りぎわのさくらほど美しいものはない。散るさくらは日本的心情の最たるものである。
放哉はそれをさくらのみならず、女性の美しさの中にもみようとした。女性のはかなさと美しさを忘れることはできなかった。
別れをいいて幌おろすゆびさき
これは一編の短編小説のごとく読む者の心にふくいくとした匂いを吹きつけてくる。
<引用元>
※『層雲』第68巻 第3号(昭和55年3月)を底本としています。
※読みやすいよう、異字体や旧仮名使いに関しましては、正字・現代仮名使いに変換している箇所があります。