君よ、冬まで眠れ

 いやタイトルに大した意味はない。ただ単に俺は冬生まれで、雪国育ちの冬を舞台にした作品が好きだっていうだけ。ただしホワイトアルバム2は除外する。唯一の、ヒロインの一人に本気で苛立って攻略を諦めたゲームだった……。おじさんになった今の俺でも、彼女を許容することはできないだろう。自分が意中の人から愛されることを当然とし、現実を認められなくて逃避したくせに、それでもその想いだけは変わらない、と呪うように自己愛をぶつけた彼女を、俺は心から軽蔑する。

 話を戻す。いや戻すほど話もないが。

 残暑である。秋はどこに行った。いや、個人的に明日いきなり冬になってもなんら問題ないし、むしろそうなれ、と思っているが、日本の四季はもう死んだのかもしれない。が、自然の力は偉大だから、来年には普通に空きが復活しているかもしれない。当然の話だが、人間は自然を制御できないし、予測し切ることもできない。的中率百パーセントの天気予報はない。必ずどこかで裏切られる。それが世の中の理でもある。

 人は他人を信頼するよりも、裏切る生き物だ。なぜなら、その方が簡単だから。人はどうしたって、簡単な道と安易な答えに飛びつく習性を持っている。それはつまり、不安であることが嫌だから、それを取り除いてくれるものであればなんであれ受け入れる、ということでしかない。そこに思考や理性はなく、ただ、動物的な本能のみがある。人はおそらく、現存する地球上の生命の中で最も孤独を恐れるように設計されている。それは古代から変わらず、現代でも変わっていない。

 だが人は、孤独を超越することができるようになるかもしれない。

 孤独を恐れるのは所詮、肉体――脳でしかない。であれば、その束縛から解き放たれて、精神だけの存在になれば、人は孤独を恐れることなく、あるいは、孤独という概念そのものを過去のものにできるようになるはずだ。肉体が孤独を嫌がるのは、人の身体の持つ温もりを求めているからであって、そもそも肉体をなくしてしまえば、そのような欲求は消える。人が性欲を捨てられないのは、肉体が存在するからだ。肉体が存在し続けるには――少なくとも遺伝子を至高の根幹に据えれば―ー人同士の肉体的、粘膜的接触が避けられない。つまり、性交をしなければならない、ということだが、人が肉体を捨てて精神だけの存在になれば、そのような愚行から自由になれる。

 とはいえ、肉体を持たない生命などありえるのか。これはつまり、幽霊の実在を証明するようなものだが、それができなくても、人は愛の実在を証明しなくても生きていられるだけの鈍感さがあるのだから、あらゆるものの実在が証明できなくても人は人でいられるのだろう。だからきっと、人は肉体を捨てて精神だけの存在になっても、人でいられる。人の定義は肉体の有無ではなく、心の有無であろう。そして心の実在は証明できない。愛と同じように。そう考えれば、人にとって真に必要なのは肉体ではない、とわかる。

 しかしながら、このような思想は四月に降る雪と同じだ。

 ありえるかもしれないが、すぐになくなってしまうことが宿命づけられた考えなのだ。四月に降る雪は、明日には溶けて、人の心にさえも残らずに消えてしまう――元に戻ってしまう。
 だから、人が肉体を捨てて精神だけの存在になっても、すぐに元に戻ろうとするだろう――人は不変なるものを望み、その対象に肉体を選んでしまった生き物だから。もちろん、実際問題、肉体は不変ではない。生まれたその瞬間から変化と劣化することを強制されている。そこに自由はなく、定まっている。覆すことはできない。

 つまり、人には人の在り様が制御できないし、予想もしきれないのだ。自然と同じように――人は自然から生まれたのから、その性質を受け継ぐのは必然であろう。人が制御・予想できる存在になるとすれば、自然から生まれない存在になった時である。それはもちろん、不可能だ。精神さえも、自然から生まれたものだから、できるはずがない。

 だから人がどのような変化・劣化をしようとも、最後には自然と同じように枯れて、次の世代に何かを託して死ぬことしかできない。それは絶望だろうか。自然から生まれたあらゆるものには終わりがある。この世界そのものがいつか必ず終わることだけは間違いない。一秒後の未来の実在の証明さえできないのが人であり、自然の摂理なのだ。

 だからこの残暑もいつか終わるし、四季というものだっていつかは終わるだろう。それを悲しいと思う自由はあるが、受け入れることは強いられる。人は自然の理の下でしか生きられないから、どれほどの自由を得ようとも、その事実からだけは逃げられない――自由さえもいつか終わる。人は死ぬのだから。

 どれだけ人を愛そうとも、愛は永遠ではないし、愛にも終わりがある。いつまでもそんなものに縋って生きるのはあまりにもみっともないのだが、人は愛の生み出す、肉体的・精神的快楽から逃げられるほど成熟していない――人は未だに、十二歳にすらなれていないのだ。

 あらゆるものがいつか終わる。絶望さえも終わる。だから行き続けることに意味はある。絶望のまま死ぬよりは、絶望の終わりを見届けて死ぬ方が、きっと、楽しいから……

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