ヘルシンキで歩いて
大きめの定理を証明してひと段落すると、しばらくその余韻に浸るために数学から離れることがある。Springerの黄色い教科書を一旦閉じてフィンランド語の宿題に移ってみたが、もう集中力が残っていなかったので帰ることにした。大学図書館からは歩いて20分くらいなのだが、最近は寒いし地面のコンディションも悪いから地下鉄に乗ってそれを14分くらいに縮めることが多い。
ところが、図書館から地下鉄の駅まで降りるエレベータが並んでいた。東京にいればこのくらいなんてことないのに、フィンランドだとエレベータの中に5人いればもう窮屈。さらに、後ろも並んでいるからと、無理にスペースを作って6人乗れるようにするのは苦しくて仕方ない。ヘルシンキ大学駅のプラットホームに行くにはこのエレベータを降りるか、図書館から一回外に出て遠回りをしなければならない。どっちもバカバカしいので、20分かけて帰宅することにした。
快晴で冷え込んだ朝から天気は一変し、今にも雪がちらつきそうなどんよりとした夕方のヘルシンキ、気温は零度近くまで上がって、雪の溶けたところは石畳が見えている。大学と家の間の移動は意外と至福の時間で、大抵考え事をする。今までに、この移動時間で悩んでいた数学の問題で道が開けることもあった。でも、一番多いパターンは、一見関係ないような点と点が結びつくことである。
人間と他の生き物を別けるものは何か。「ホモ・サピエンス(賢い人)」という学名にあるように、伝統的に、人間を人間たらしめるのは理性だと考えられてきた。しかし、哲学者ハンス・ヨナスは、「ホモ・ピクトール(描く人)」という言い方をし、形相知覚とその表現に注目する。そんなことを、人工知能の勉強で読んだ。
ヘルシンキの元老院広場には、雪かきによって集められた雪の「山」がある。人間は、富士山や高尾山のような「山」の形相を知覚し、一般化された像を目の前の雪で表現し、それを「山」と呼ぶことができるのである。
ところで、集合論の創始者であるドイツの数学者カントールは、$${\omega}$$(オメガ)と書いて自然数全体の集合を表した。
$$
\omega = \{0,1,2,3,\cdots\}
$$
集合論では、これは一つの集合、すなわち数学的対象として扱う。例えば、
$$
\omega + \omega = \omega\cdot 2
$$
といった計算も定義できる。1年前、集合論の授業を受けた僕は、最初は直感に反しているようで飲み込むのにしばらく時間がかかり、でもその数学的整合性に圧倒される、そんな「カントールの楽園」(ヒルベルト)にどっぷり浸かってしまった。結果としてその衝撃を引きずったまま、1年後にその時の先生の指導のもとで集合論の卒論を書いている。
自然数全体の集合は、無限である。$${\omega}$$はこの無限をある種の実存的な無限(実無限、actual infinity)として捉えるものであるが、しかし人間の直感では、これをなかなかイメージしにくい。古代ギリシャ人が無限を恐れたように、ホモ・ピクトールの数学の歴史は、この実無限との戦いという側面があるように思っている。そしてついにカントールによって実無限が「描かれ」て、その理論が展開された。
僕は、こういう楽しいことを考えていると、目的地に着くのが惜しくなって、到着を目の前にして立ち止まってしまうことがある。今日もアパートに着いてエレベータの前で少し立ち止まってしまったから、それを含めて20分$${+\alpha}$$の帰宅であった。