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氷柱の声を読んで東日本大震災の経験を初めて振り返る(くどうれいんさん著)
くどうれいんさんの「氷柱(つらら)の声」を読んだ。本記事では要約ではなく、震災を経験した自分自身の経験も踏まえた回想をここに残したい。
氷柱の声の感想と震災について
くどうれいんさんが岩手県出身ということは存じていたが、氷柱の声を読み始めて岩手の話、震災の話が出てきたときは驚いた。あとがきにも記述されているが、ご自身が当時から抱いている思いや震災がおりなす人それぞれの濁りを表現し、あくまで小説だけどどこか現実も含んだ、過去の感情を呼び起こす作品だった。
私自身は岩手県釜石市で中学校1年の時に震災を経験しているのだが、その当時から今まで(現在20台後半)一度も震災について語ったことがないし、特に振り返ったこともない。なぜかというと自分でもよく分からないのだけれど、語ることを嫌だと感じていた。今回、くどうれいんさんの氷柱の声をきっかけに少し思い出していきたい。
震災当日のこと
岩手県釜石市の鵜住居町にある小さい中学校に通っていた私はあの当時中1だった。震災当日のことは今も鮮明に覚えていて、揺れの感覚も視覚も津波が起こした粉塵も全て覚えている。その場所に今は綺麗なラグビー場が立っている。
「〇〇〜(自分の名前)、〇〇、この後こっち来い〜」
体育会系大学出身の武力派女性先生に帰りの会が終わって呼び出された。あまりにもあっさり呼ばれたのが逆に怖かったのを覚えている。なぜなら、冬休みの宿題で提出していないものがあるのをずっとそのままにしていたからだ。その件について、今から体育会系大学出身の先生にこっぴどく怒られる。そんな予感を感じながら教壇に向かった。教壇で同じ野球部の友だちと、先生が他の女子生徒とのやり取りが終わるのを待っている最中も3月11日の冬なのに、冷や汗をかいていた気がする。「とうとう怒られるのかよ〜、てか逆に今までよく野放しにされたな、部活遅れちゃうな、」と静かに考え、「どうにか無しにならないかな」と本気で祈っていたときに震災が起きた。本当に無しになってしまった。全て無しになってしまった。こんなことならこっぴどく怒られたかった。
教壇の下で揺れに耐えている間、女子生徒が机の下で泣いていたことを覚えている。みんな本当に動揺していた。前日にも体育館のガラスが割れるレベルの地震があったのだが、(普段ならフォーカスされない地元がニュースに出ていて興奮したのを覚えている)そんな地震とは比較できない横揺れで全員がひたすらに自分を守った。机の下に隠れない人などいなかった。
呑兵衛のじいちゃんが死んだ
震災発生から2日後、じいちゃんが死んだことを知った。
父親と弟が無事で祖母も無事だった。震災後すぐに避難していた釜石市内の海から離れた小学校から、車で家のある鵜住居に戻っている最中にじいちゃんが死んだことを知った。
「落ち着いて聞けよ。じいちゃんが死んだ。ばあちゃんは無事だった。」
「え。」
運転席の父から言われた報告に驚きを隠せず、何も言えなかったことを覚えている。近しい親族が死んだことはこれが初めてだった。13才の自分にとって、後部座席で聞いた瞬間のあの光景は忘れられない。車に乗っていた父、弟、いとこ全員が前を向いていた。どこか現実から目を背けるように。
「そんなに悲しくねーべ?」
年齢が2個上のいとこが言った。耳を疑った。こいつは事前に聞いていたらしい。色んなことがあって動転しているから、何を言っているか分からなかった。十数年経った今も何を言っているか分からなかった。たしかに、じいちゃんはえげつないレベルの酒飲みで色んな人にも迷惑をかけて、たまにばあちゃんにも手をあげるようなクソ男だった。酔っ払っていとこの家に行って、間違っていとこの家ではない家をピンポンし警察のお世話になり、当時中学生のいとこが警察の対応をしたこともあった。書けば書くほどクソ男だったかもしれないけど、酒癖の悪さ以外は普通のじいちゃんだったし、じいちゃん家に行ったときの優しく名前を呼んでくれる独特の暖かさを今も覚えている。もう会えないから覚えていて嬉しい。
友だちの中には親が死んだ人もいたし、兄弟が死んだ人もいた。その人たちに比べたら自分は幸いな方だと思っていた。ただ、じいちゃんには2度と会えないし話せない。ちなみにいまだにじいちゃんの遺骨は見つかっていない。
ずっと伝えたかった「消えた校舎」のこと
震災のことでいつか本にしたいと思っていたことが1つだけある。
震災から1ヶ月後の4月から釜石市内の中学校を間借りした生活が始まり、鵜住居からスクールバスで通う生活が始まった。その1年後、間借り生活が終わり、鵜住居の山の方に仮設校舎が建築された。仮設校舎の方が家から近いものの、距離としてはかなり遠く、スクールバス生活は継続された。毎日瓦礫の中をスクールバスが通る。毎日瓦礫を、変わり果てた鵜住居町を見ながら通学する。道の途中、ボロボロになった中学校と小学校が見える。そんな通学風景を覚えているのだが、ある時こんなことがあった。
「被災した中学校と小学校の校舎を解体するらしい」
嘘だろ?耳を疑った。当時15才の私は反対だった。今考えれば被災した校舎はもう使えないことは分かるので、解体になってしょうがないことなのだけど、学び舎がなくなるのは当時の私にとって、今の私にとっても心臓を抉られる経験だった。でも、解体の件は帰りの会で先生から渡される保護者向けの紙で言われただけで、特に何もなく始まり終わった。本当に残念だった。
毎日学校まで行くスクールバスの中で、徐々に小さくなっていく校舎を見ていた。毎日少しずつ小さくなっていった。スクールバスのガラスのフレームの中で確実に小さくなっている。スクールバスの通りからは少し距離があるので、そもそも小さく見えているのだが、確実にしっかりと無くなっていっているのが分かった。私は、普段は野球をやっていて震災の話なんかしないような人間だったけど、誰にも話さずただひたすらと小さくなる、消えていく校舎に悲しみを覚えていたことをいまでも忘れない。
そうやって何もお知らせもなく、校舎は「消えた」。スクールバスからも見えなくなった。2度とあの校舎を見ることはできないし、あの広い校庭で走ることも遊ぶこともできない。夏休みにはプールの塩素の匂いがして、子供たちの楽しそうな声が響くあの心地よいリズムを感じることはできない。朝から晩まで白球を追った野球場にも記憶の中でしか立つことができない。小学校側の校門前にあった公衆電話をもう使うことはできない。
せめて最後に立ち会いたかったな〜。みんなどう思っていたんだろう?興味なさそうに見えて本当に悲しんでいた私みたいな人もいるのだから、同じ気持ちの人もいたのかな。もうその時には戻れないのだが、こうやって思い出すことができるだけでも、自分の脳に感謝したい。
ちなみに、震災があったから通った小学校も中学校も(仮設校舎も解体された)今は存在しない。記憶の中でしか思い出すことはできないということは本当に悲しい。
※正しくは校舎は存在するのだが、卒業から数年後に建築された新校舎のため通っていない校舎
震災を初めて振り返ってみて
今まで語ってこなかったが、こうやって綴ってみると思いが色々な方向に巡ってあれもこれも思い出す。震災に良い思い出なんかひとつもないから、あの時しっかり蓋をして、2度と匂いも感じないように過ごしていたかのように感じる。(テレビ番組の特集も震災当時から見ないようにしている。全く見たいと思えないという点では、やはりだいぶきつい蓋を閉めていたようだ)
くどうれいんさんに感謝したい。氷柱の声は非常に面白かったのだが、それ以上にこのきっかけをくれて本当に有難いと思う。あとがきや本編を見るにくどうれいんさんも震災になんらかの濁りを感じていたのかと勝手に思う。氷柱の声で表現してくれたおかげで私も振り返ることができた。震災で被害に遭われた方が少しでも幸せを感じられることを心から願いたい。