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「エモい」についての殴り書き(2)
タイトルの通りです。(2)です。
順番通りだと今回は、2.「エモい」と「ヤバい」は別物 について書く予定でしたが、諸事情により先に3.「エモい」ということばの評価のしづらさを、描きたいと思います。
書く内容自体は決まっているんですが、引用部分のページ数を探すのに思った以上に時間がかかってしまいまして.....それなら、先に書ける3を書いちゃおうという感じです。
言い訳はここまでにして、そろそろ本題に入ります。
なぜ「エモい」ということばは評価しづらいのか?というと、
「エモい」の曖昧さは肯定的にも否定的にも捉えられるから
だと私は考えています。
前回も記述したように、「エモーショナルな感じがする」ということであり、「感情に訴えかけて来るものがある」「心が動かされるようだ」「情緒を感じる」「趣がある」「グッとくる」というような説明しがたい感慨を述べる表現が「エモい」です。
そもそもこの説明したがい感慨ってのが嬉しさや幸福のようなプラスの意味も、悲しさや哀愁のようなマイナスの意味も含んでいる辺り、かなり曖昧で分かりづらいですよね
この曖昧さが、「その人の言いたい事が理解しづらい」とか、「若者の語彙力の低下」みたいな「エモい」の否定的な評価に繋がっているのかな〜と思っています。
「エモい」に関する否定的な評価は、次回更新分の2でもう少し詳しく説明しようと思います。
私はどちらかと言うと「エモい」の曖昧さを肯定する立場です。
言語哲学の祖ヴィトゲンシュタインや"聖人"ジョルジュ・バタイユ、山口の大偉人中原中也という、活躍した時期こそバラバラですが、ことばを生業としてきたという共通点を持つ偉人達は、意外にもことばに対しても似たような考えを持っていました。
それぞれ異なる専門的な用語を用いて説明しているのですが要約すると、
自分の中の思いとそれを他人に伝えるために言語化された思いは、必ずしも一致するとは限らない。
ということです。
図式化するなら、
自分の本来の思い/考え≠言語化された思い/考え
という感じ。
職業や考えが似ている3人ですが、それぞれのことばに対する結論、どうやって言葉と向き合うべきなのかは全く異なっているので、是非読み比べて欲しいです。
話が少し逸れてしまいました。
「エモい」をこの観点から見てみると、説明したがい感慨を嬉しい、悲しいのような既存の型・フィルターにかけて、自分の今抱いているものとズレたことばにするのではなく、できるだけ感じたそのままの気持ちを他者に伝えようとした結果、言語としては曖昧な「エモい」が生まれた。と考えることが出来るのではないでしょうか?
こう考えると「エモい」を大層なものに感じるかもしれません。ですが、現在「エモい」を使っている人はそこまで考えていないと思います。
むしろ、「エモい」が爆発的に流行したのは別の理由があるのではと私は睨んでいます。
詳しくは4で触れるのでここでは軽くに押えておきます。
「エモい」が爆発的に流行したのは、
話し手の承認欲求の肥大化・暴走
いやこれだと承認欲求=悪みたいに捉えられてもおかしくないですね。もう少し噛み砕くと、
「エモい」を用いる人は聞き手に対して、会話を求めておらず、いいね!やわかると言った同意が欲しい
のではないのでしょうか?
あるいは
他のことばと異なり「エモい」は曖昧だからこそ、 不十分な/欠けている部分を各々で補えるから
爆発的な流行をしたとも考えることが出来ると思います。
所々脱線しましたが、ここまで読んでくださった皆様には「エモい」の評価しづらさ、分かっていただけたと思います。
この連載はあくまで「エモい」最高!!or最低....という二元論的な結論に持って行きたいのでは無く、記事の内容を通じて、ちょっとでも良いから「エモい」延いてはことばそのものに興味を持っていただければなぁ.......という感じで書いています。予めご了承ください。
「エモい」についての書き殴りは、とりあえず4月初旬までに終わらせるつもりです。その後も多分ことばについて、書くと思うので末永いお付き合い よろしければ是非。
追記1,エモいが流行した理由を1つ追加しました。
追記2,一部表現の変更、引用の追加を行いました。内容自体は変わってないです。